
反芻思考
誰しも、昔人に言われたことが思い出されるという経験をしたことがあるだろうと思う。
このところ私の頭の中には、十年以上前に元同僚から言われた言葉が毎日のように浮かんでいる。
それはあまりいい思い出ではなく、むしろ人生の中でワースト何位かには入る思い出なのだろう。だからこそ記憶の上澄みに浮かんできてしまうのだろうが、おそらく言った相手は何を私に言ったか覚えていないし、私の存在すらその相手の中ではごく小さいものになっているはずだ。そんなものに悩まされているのは無駄なので、なんとか理屈をつけて納得させようとしているのだが、なかなかうまくいかない。意趣返しの創作でも作れば昇華されるだろうかと考えたこともあるが、いかにも人間が小さい考えなのでできていない。
人になにかひどいことをされた時、「普通の人ならそんなことはしないだろう。だから、相手が悪いんだ」と思うことは有効な対処法だと思う。腹の中では様々に考えていても、それを相手に敢えて言わずに流すことが多い。その大人な対応すらできない相手が悪いのだと。
一方で、そんな大人な対応をしたくないくらい、こちらがなにか気に障ることをしたのではないか、こちらの性格なり態度なりが信じられないほど悪く、しかもそれに私自身気づかないでいて、知らない間に見限られていたから、あんな対応をされたのだと、自己卑下しがちな私はその思考につい傾いてしまう。
しかし最近、宇多田ヒカルの曲で『自分が傷ついたのに、自分が悪いと思うのはダサいからやめ(よう)』という趣旨の歌詞にハッとさせられた。傷付いたのは私の責任で、相手方に文句言っても私は進歩しないのでは、と性懲りもなく思ってしまうのだけれど、少なくともこの件については、私は自分が思う以上に傷付いている(た)みたいだし、私が必要以上にナイーブで未だに引きずっているのだとしても、私はあんなことで傷付けられるべきでなかった。あまりのことを言われてびっくりして、私の傷付きを相手に突きつけることも、向こうだけ勝手に吐き出して気持ちよくなっているその面を叩き返すこともできなかった悔しさが強いから、今でも思い返してしまうのだと思う。
(とはいえ、私がもし反射的に言い返したら相手をすっきりさせてしまったんじゃないのかと思う。私が言い返さなかったことで、溜まった悪意ある本音を吐き出してすっきりしようとしたのに、却って自分だけが悪者になって後味が悪かったんじゃないか《だから、意図せずそうなったとはいえ、私の大人な態度は褒められこそすれ自己卑下するものではない》と思うのだけど、これを読んでいる読者諸兄はどう思われるだろうか。)
その人に言われたことを引きずっているのは、私が今を肯定できていないのも大きいのだと思う。おそらく私は今の自分に満足するのが怖い病に罹患したままなのだ。現在進行中の実際的な足掻きが、私のこの実態のない病を緩和してくれるだろうと信じているのだけど、どうかな。
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