日記 20241106-1107

 最近、ものと自分との間合いがうまく取れなくなることがある。昨日の朝、二日ほど前に買った蕪をそろそろ使わなければならないと思って、半分は四つ割にして焼いて、もう半分は夜のサラダにしようと皮をむいた。その蕪はまだ柔らかく、皮の下に硬い筋があったわけではなかったのに、私は目測を誤って左手の親指を切りつけてしまった。慌てていたので絆創膏を一枚土間に落とした。
 一日絆創膏を付けたまま過ごして、大分草臥れたそれを今朝剥がしてみた。傷は親指の指の腹三分の二ほどを占めていて、細長い傷口はまだ赤かった。右手で持っていたペンの先が当たると、すぐに柔らかく赤い血が流れ出た。新しい絆創膏のテープ保護シートに赤い模様が付いた。

 友達が家に柿を取りに来て、その中の一人と、寒空の中一時間ほど立ち話をした。彼女の家は来春三月に新築と相成る。近々上棟式だそうだ。
「上棟が好きなの」
 彼女は言った。
「一日で屋根を乗せるところまでやらなきゃいけないところとか」
 昨年、彼女の家のお隣が家を建てた時も、そこに住むことになる主婦と並んで二時間上棟の様子を眺めたらしい。その前は、友達の家の正面で行われた、分譲新築一戸建ての上棟も見たそうだ。ハウスメーカーの営業はともかく、工事をする人は誰が施主かははっきり知らない。彼女はあらゆる場所で施主の関係者だと思われている。
 少し寒かったが、気の置けない人の顔を見て、話も出来たので気が紛れた。私の創作の先生は、親を順列の時系列に殺されたらしく、時系列で話が進む小説を嫌う。私も時系列だけでしか書けないのは嫌だなと思い、構成における色々な武器を習得しようとしているが、二週間に一回、かつ一人当たり最大でも二十分しか取れない講義だけでは講師の意図するところは十分伝わらず、また私自身の力不足もあってなかなか上達しているように感じない。
 昨日は全八人のうち私の講評が一番最初だった。以前とは真逆なことを指摘されたので混乱してしまい、二人目、三人目の人の講評は耳を通らなかった。
 最後の人の講評で、作者が女性として書いていた人物のことを、先生が男性だと間違えていた。普段はへにゃっとした困り顔で先生に応対するその若い女性が、「その人は女です」と強く言っていた。私もその登場人物は当然女だと思って読んだが、先生は、この文章だと男だという先入観を持って読んでしまうと言っていた。彼女は講座で時々先生の言うことが分からなくなる。分からなくて何度も同じことを聞くので、彼女に割かれる時間が、人数で割ったのよりかなり長くなる時がある。そのやり取りが三往復目ともなると「なんでこの人はこんな簡単なことが分からないのだろう」とイライラしてしまう。でも昨日は彼女がなぜ分からないのかや、彼女の前の何人かの生徒が納得できていなかったことが私にはよく分かった。自分がうまく書けていないと思うから、他の人に寄り添えるのだと思った。
 ハン・ガン『すべての、白いものたちの』を講義の後に読んだ。あとがきで筆者か解説者かが、一読しただけでは分かりにくいところがあると言っていたが、私はそれも難なく分かった。なんだ、読めるじゃないか。講座による頭の混乱は少し収まったけれど、分かることがいいことではないかもしれなくて、読めてしまうせいで、書く時に、読める人をベースに書くくせがついているのではということを思ったりした。そのくせ、持っている武器の火力にばらつきがあるから、いいものにならない。
 私自身も、私の周りの人も、スパルタな人が多い。助けを求める。大袈裟ではと思われる。でも、本当に牧場に狼が大挙していたら? 死なないためには、私一人の脚力が頼りだ。

 友人が、一時間前に行くはずだったスーパーにようやく自転車を走らせていった後、仕事をするのも書くのも中途半端な時間になっていたので図書館に行った。普段除籍本が並んでいるところに沢山の本が並んでいた。一冊本を取り上げてみると、貸し出し用のバーコードがなかった。棚の名前は「市民のリサイクル本コーナー」に変わっていて、どうやら寄贈されたが収蔵できない本がそこにあるらしかった。図書館に入れなくて可哀想だった。
 まっしろな表紙の、小保方晴子『あの日』を連れて帰った。中には、みっともない言い訳や自己憐憫が並んでいるかもしれない。しかし一度でもスターダムにのし上がった人が何を書き残したか、知ることができるだろう。



 構成の勉強として、毎週書く日記を、少し時系列を混ぜて、物語のように書いてみるといいのかもしれない。この思いつきがどれだけ続くかはわからないが。
 今週はそんな感じで。

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紅茶と蜂蜜
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