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邯鄲な日記 20220423

 昨日は「簡単な日記」と書いたのだけれど、いつまで続けるやらわからないのだし、「邯鄲」と書いた方がよいように思うのでそうしてみる。

 創作は公募への労力を削ぐことになるし、エッセイは露悪的――「悪」とは限らないので、「露自的」とでもいうべきか――自分のことを書きすぎてしまう、知られ過ぎてしまうようで居心地が悪い。なんとなくほっこりしたラストにしようとしてしまうのも嫌だ。そのどれにも抵触せず、他者が読んでも差し障りのない程度の日記なら、軽い筋トレとしていいのではないかと思ったのである。

 小説を読めない時期、エッセイを読めない時期というものがあるが、他の人の「読めない」と私の「読めない」はどうやら違うらしいことに最近気付いた。たとえば、他の人の「読めない」は「読んでいても話に入り込めない」という「読めない」もあるらしいのだが、私の場合は物理的に手に取ることすら煩わしく感じるという、文字通り一文字も読めないのが「読めない」である。

 私の読める時期に、話に没頭できる時期とそうでない時期があるかというとそうではない。文章が面白ければ没頭できるし、面白くないと文の構造や小説の構成など、話以外の周辺の事柄が気になるというだけのことだ。あとは、小説指南本を読んだ直後などには、面白いと思った作品でも分析的に読もうとする傾向にある。だからなんなんだってことなのだけれど、私は小説をもっと分析的に読もうとした方がいいだろうなという話である。


 週末の新聞を三紙読むということを続けているのだが、三月半ばまで買うだけ買って溜まりがちになっていた。それをやっと消化し、気になった記事を切り取って、後で読もうと置いてあった束にもようやく目を通せたのだけれど、一番古い記事は昨年の十月のものだった。半年近く続けていたことに我ながら驚いている。せめて書評を読むというのは人に勧められたことで、何かしらの糧になっていているといいのだけれど、私に実感はない。切り取った記事は、取り敢えず書評欄だけ切ったというものにはあまり読むべき点がないように思え、読書と関係がなくても心が多少なりとも動いたものはその記憶が残っていた。


 小説には地の文と場面とがあって、地の文は説明したり、話を進行させたりする機能がある。頭では理解していたが、地の文と場面との書き分けというか、「今は場面を書いているな」「今は地の文だな」とはっきり認識できていないことに気付いた。私は長らく一人称小説しか書いてこなかった。一人称小説だと、一人の目を通した文章になるので、これが描写なのか、場面なのか、地の文なのか分かりにくい傾向にあるだろうが、それにしても幼稚ではないだろうか。話は少し変わるが、未だに迷うのが、描写をどの程度丁寧にすべきかという点である。たとえば主人公が働いている時の動作を具体的に書けばリアリティが増すが、だらだらと描写ばかりしていたら冗長になってしまう。さりとて、話の筋に関係するところだけ書いていたらただの筋書きや脚本になってしまう。推敲していても、文章が良く変わったのか、ただ冗長になった/必要以上に簡素化されただけなのか、いまいちわからないのである。

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紅茶と蜂蜜
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