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「田無多聞」の死後の世界を考えてみた
こんにちは。私のペンネームは「田無多聞」といいます。
東京の田無(たなし)という街にすんでいます。50歳代の男性です。
「多聞」はブログなどでの情報コミュニケーションを通じて、多くの素敵な人々とつながっていきたい。
そんな想いからネーミングしました。
これからは自称、「開運アドバイザー」として情報発信をしていきます。
今回は、死後の世界を考えつつ、ポジティブに、よりよい現世の運を開いていきましょうという趣旨の学びを提供したいと思います。
論語指導士
私は「論語指導士」という資格を取得しています。
死後の世界を考える前に、最初に論語指導士についてご案内します。
論語指導士とは、一般社団法人論語教育普及機構の資格認定試験に合格し、中国古典の論語に関する一定の知識を有することを認定された人のことをいいます。
私もこれからの人生後半戦に向けて、論語指導士として論語教育普及の活動に取り組んでいこうと思います。よりよい人生を共に歩む、その運命を開く学びを発信して参ります。
ここでお断りですが、論語指導士イコール死後の世界を考える人とは誤解なさらないようにお願いします。もちろん論語の一節には死を論じた部分があるので後程ご案内しますが、それだけのテーマを扱っているわけではありません。
また、論語教育普及機構は「田無多聞」というようなペンネームで登録できる団体では無いということもお伝えします。論語指導士としては本名で活動しています。
死後の世界を考える
さてそれでは冒頭、論語の中では死後の世界がどのように語られているかを
紹介いたします。
「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」
これを現代語で解釈致しますと、
孔子先生がおっしゃいました。
「まだ生きることについてさえよくわかっていないのに、死についてなどわかるはずもない。」
えっ!なんだか随分と突き放した教えだなと受けとめられたことでしょう。
今、生きている間のことを考える方が重要だ!とポジティブ思考を説かれています。
※ここで注釈ですが、論語の原典は紀元前に中国で書かれた文章ですので、現代中国語とは異なり現代では良く解釈が分からない部分が多々あります。よって訳文によってはこの解釈とはだいぶ違うことを言っているなという訳文に出会う事がありますのでご留意ください。ここはある程度、自分なりに好ましいと思う解釈を取っていただいて結構ですよという、自由な立場が取られていることをご理解ください。
戻りますと、儒教の祖である孔子先生は、死後の世界はわからないという立場をとっていると論語のなかで語られています。
この立場と近い考えを現代日本の思想家の方の文章で出会ったことがあります。
医者で解剖学者の養老孟司(ようろう たけし)先生です。
思想家の定義はよくわかりませんが、養老先生は深く明晰に思想される思想家であられると私はその著書を拝読しています。私にとっては先生です。(お会いしたことはありませんが)
養老先生は、
「死は存在しないのと同じである。」
あまり考えすぎないほうが良いですと、暗に語り掛けて頂いています。
なんだかホットしますね。
つまり自分の死は「一人称」ですが、自分の死は見ることが出来ないため、存在しないのと同じなのです。
残された近しい人々があなたの死に「三人称」として向き合う問題なのです。と説かれています。
先生は自分のペット(家族)の猫、「まる」の死には深く向き合われていますが、御自身の死にはかなり無頓着な立場を取られています。
「だって、あなたも毎日死んでいるではないですか。夜、寝て。朝起きているでしょ。」
という趣旨のことを言われています。
朝起きられない死とは、ちょっと違うのではと思いますが、そこは深く考えずに、その位の身軽さで死について向き合って生きてみたら如何ですか。と、
孔子先生同様にポジティブ思考で励まして頂いている気がします。
そして私、田無多聞の死後の世界を考える立場は、このように死後の世界は存在しないという考えが基本となります。
と考えました。
「以上、おいまい。」ではかなり乱暴ですのでその他の解釈も紹介します。
そもそも死後の世界は?についての絶対的な正解は無いし、だれも知らないのでこの問いについて語ることは、だいぶ気が楽です。
そうです。自分なりに好ましいと思う解釈を取っていただいて結構ですよという、自由な立場が取られます。なので、それは違うでしょとお怒りになられない様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
なにせ、「死とは?死後の世界は?」という問いは人類が大昔から考え抜いて来た深遠なテーマなのです。哲学者、思想家、宗教家、科学者、一般の人々まで多くの方々、
そしてこのnoteを読まれているあなたもお考えになっているテーマでしょう。
ここでは、まずは宗教のアプローチから「死後の世界」についての解釈をお伝えします。
そのまえに、まずは宗教とは?の問いに答えていきます。
「宗教とは、死ならびに死後の説明者である」
と、「宗教の定義」を語りかけてくださる先生がいます。
論語教育普及機構の理事長で、私の師匠(お会いしたことはございませんがe-ラーニングやWeb講義で教えを頂いています。)の大阪大学名誉教授で中国哲学者の加地伸行(かじ のぶゆき)先生です。
これは加地先生が研究されている中国古典の論語が、儒教の祖である孔子先生とその教え子達との教えと学びの場を口語形式で書き留めた書であり、その儒教という教えが、そもそも宗教なのか? 哲学、思想、文化、政治、実践道徳などを語った教えであり宗教とは違うのではないか?という問いに加地先生が述べられている定義なのです。
つまり「儒教は死を語っている。よって宗教である」という解釈です。
それでは、儒教では死と死後の世界をどのように語っているのかと簡潔に申しますと、加地先生は「招魂再生」が儒教の死生観だと語られています。
誤解をおそれずに平たくいうと、「魂はよみがえる」ということです。
死んだら魂魄(こんぱく)の魂(たましいは近しい天)と魄(肉体は地)に帰り、いずれかは近しい人の元にもどってくる。近親者の死には礼を持って喪に服し、肉体はお墓に埋葬して、先祖が子孫として戻る日を待ちましょうとしています。戻るというのは一族の血は脈々と受け継がれているという趣旨です。
一方、日本でなじみのある宗教、仏教の死生観は、「輪廻転生」ですね。
これも平たくいえば、「よみがえり」であると考えられますが、必ずしも人間によみがえる訳ではないようです。他の動物、たとえば虫などによみがえることもあります。
今の人生での行いによって来世が決まる因果応報です。その輪廻転生の永遠のサイクルから逃れて自由の境地に至るのが解脱ですが、その時、私はどうなってしまうのでしょうか? 私の学びが浅いのでそこまでは分かりません。
このさき神道は?キリスト教は?イスラム教は?と展開していってもいいのですが、
この位にしておきます。つまりどこに行くかはまちまちだけど、宗教では死後の世界はあると語られている。そのように解釈されているということです。(死後の世界などはないと語られている宗教があるかもしれませんが、そこはお見逃しください。)
さて、それではあなたはよみがえった人にあったことはありますか?
この問いは宗教や、まともな日本の社会人の領域ではタブーなのか、私の周りで語られているのを聞いたことがありません。
そもそも宗教と政治の話はしないように、と私は社会人一年生の時から会社で上司にいわれてきました。
仏教行事や神道行事などを年中行事として生活に多く取り入れてきた日本において、相手の宗教帰属を問うことが敬遠されていることは、外国人の方からしたら奇異に感じられるようです。実際に宗教帰属を問われたら、おそらく多くの日本人の方は、分からない。又は、お葬式をするときは父方は浄土真宗、母方は日蓮宗というような回答をされるのではないでしょうか。
私の場合、冗談ではなく八百万(やおよろず)の神、つまり多くの神様を信仰している多神教信仰者です。と答えます。冗談めかして言わないと、少しおかしい人と受け取られかねないでしょうが。
特定の宗教を信仰している方も周りにいらっしゃいますが、多くの日本人は感覚的には私のような受け取り方を宗教には感じているのではないでしょうか。
話を戻します。「よみがえった人」でした。
私は、自分の前世を知りません。前世を知っているという人は、周りの人から聞いたこともありません。ネットでスピリチュアル系の占い師の方に占っていただいた方の話を見かける程度ですが、「私の前世は織田信長です。」といきなり言われても当然納得しません。
日本のよみがえり記録として、そっち系(どっち系?)の人々の間で一番メジャーとなっているのは、おそらく、江戸時代に国学者、神道家、思想家、医者として幅広く活動した平田篤胤(ひらた あつたね)の記録、「勝五郎再生記聞」でしょう。
ご存じないですか?ないでしょうね。平田篤胤はスピリチュアル系の所謂とんでも論説を語った書物が多いので、まゆつば扱いされることが多いのですが、このよみがえり記録は、実際に現在の東京八王子に実在したよみがえりを語る勝五郎という少年に平田篤胤が、「自分は現在の東京日野市在住で6歳で亡くなった○○という子供です。」という話しを聞いて、裏トリをしたという事象の記録となっています。
これらのよみがえり事象がなぜ起きるのか?どのような原理で起きるのかは分かりませんが、現代においても、よみがえり事象の記録がテレビ番組で取り上げられることも目にするようになってきました。
それではここで別の視点での問いかけをあなたにします。
「あなたは、よみがえられるとしたら、よみがえりたいですか?」という問いです。
なんだか松本零時(まつもと れいじ)氏の名作漫画、銀河鉄道999のなかでメーテルに機械人間としてよみがえりたいですか?と聞かれていた鉄郎の気持ちのようになります。
どこで聞いたのか思い出せませんが、このような説話があります。
人は死ぬと、死の世界の番人に会います。
その番人はあなたにこう問います。
「あなたはよみがえる事が出来ます。ただし、この目の前のこのスープを飲むと今世の記憶はまったく無くなって来世に別の人として生まれ変わります。スープを飲むことを拒むと、今世の記憶を持ったまま来世に別の人として生まれ変わります。
どちらになさいますか?」
うーん。難しい質問です。
わたしはスープを飲みます。理由の多くは語りません。
あなたはどうしますか?
歴代の人類の、多くの人は飲んできたのでしょうね?勝五郎の前世の少年は拒んだのでしょう。
結局、よみがえりの真実は分かりませんとしか言えません。記録が少なすぎて再現性がなく、科学の領域で取り上げられていませんので。しかし科学がすべてではないと思いますので、やはりこれも自分なりに好ましいと思う解釈を取っていただいて結構ですよという、自由な立場が取られる。とさせてください。
さて、それでは最後に「死は存在しない」という立場を、違った分脈から解釈している立場を表明している先生をご紹介します。
多摩大学名誉教授で、経営学者で量子物理学にも造詣が深い、田坂広志(たさか ひろし)先生です。
その名もズバリ「死は存在しない」という著書のなかで考えを語られています。
19世紀のスイスの心理学者、ユングが提唱した「集合的無意識」という概念があります。人類には万人に「共通して」備わっている無意識の領域があるという考え方です。
この概念に近い考えと私は受け止めたのですが、
田坂先生は、人類がこれまで蓄積した全ての人の意識も含まれる、この宇宙のすべて情報が波動情報としてホログラム原理で記録されている場所、ゼロポイントフィールドが量子真空の中に存在している。という「ゼロポイントフィールド仮説」を紹介しています。そして、この仮説は決して荒唐無稽な理論ではないと語られています。
つまりこのゼロポインフィールドにあなたの死後もあなたの意識の情報が永遠に残り続けるので「死は存在しない」と解釈されているのです。
すごい解釈です。このような一般人(わたし)には解釈困難な仮説を、多くの経営者にも支持されている先生がどうどうと書籍で語られるということも含めてすごいと思いました。
このように本質的な真理を探究されるアプローチで田坂先生は経営学にも取り組まれていますので、私には非常に刺激的で楽しい学びとして勉強させていただいています。
では、ゼロポイントフィールドに記録された死後の私の意識は、私の姿、私の意識として今と同様に認識出来るのでしょうか?これは分かりませんね。証明するのは出来ないのではないでしょうか?そもそも意識とは何という命題が分かっていません。
田坂先生はゼロポイントフィールドでは自我は自然に消えていくと語られています。
自我が消えた意識とは、自分にとっての死は存在しないのと同じこと。
という解釈になるのでしょうか。
勝五郎は自我が消えた日野の少年の意識に、ゼロポイントフィールドでアクセスして遭遇したということでしょうか?妄想がふくらみます。
でも、この考え方は現にグーグルが表明しているミッション、
「世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすること」
と近似していませんか。人の意識というデータの領域を、どのように扱っていくのかというテーマはあるにしても。
現在、世界中の情報はその多くが、クラウドサービスなどのインターネット上のデータとして現実に実在するデータセンターのコンピューターのストレージに集積されています。
いつかはお墓が地球を埋めつくしてしまわないかと子供の頃、私は心配していました。同様にこのさき人類が扱うデータ量が莫大に増加するとデータセンターが地球を埋めつくしてしまわないかと大人になった私は心配しています。
将来、この地球上にある情報をひとつにして、宇宙に人類がつくるデータセンターに集積されたとしたら、それは田坂先生の語られるゼロポイントフィールドと同様の場所になるのではないでしょうか。但し、人の意識をどのように集積するのか?という課題に対する手段を構築しなければなりません。
ひょっとするとイーロンマスク氏はIT事業領域と宇宙事業領域を手掛けて、このようなことに対してビジネスとしてアプローチしようと考えているのでは?
と、勝手な妄想をして楽しんでいます。
イーローンマスク氏などのIT事業系の経営者の愛読書にはSF小説が多く取り上げられています。人類はこのような妄想、想像から創造の多くを生み出してきたのでしょう。
以上、開運アドバイザー「田無多聞」の死後の世界を考えてみたでした。
エピローグ
「自分は死んだらどうなるのだろう?宇宙の端っこ(はしっこ)はどうなっているのだろう?」
これは、私が小学生低学年の時の記憶として残っている問いです。
寝しなに考え出したら怖くなって、寝られなくなってしまった思い出があります。
これが歴代の人類が共通して考えてきた問いだった、と思いあたったのは、だいぶ大人になってからのことでした。
最近の量子力学の発展はすさまじく、「量子もつれ」など、かつてはその問い自体が成立可能なのか?という命題も今は実験で仮説検証が進むまでになっています。
人間は考える葦である。楽しいですけど考えすぎると少し疲れますね。
それではまたお会いできる事を楽しみにしています。
田無多聞でした。
(田無多聞の開運アドバイス)
今日、この一日を大切に過ごしましょう。
☞読書マイスター田無多聞が引用・参考にしたおすすめ図書
・儒教とは何か 増補版 加地 伸行 中公新書
・死の壁 養老 孟子 新潮新書
・輪廻転生 <私>をつなぐ生まれ変わりの物語 竹倉 史人 講談社現代新書
・平田篤胤 交響する死者・生者・神々
吉田麻子 平凡社新書
・死は存在しない 田坂 広志 光文社新書
・天才読書 世界の富を築いたマスク、ベゾス、ゲイツが選ぶ100冊
山崎 良兵 日経ビジネス文庫