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【電力小説】第3章 第11話 変電の記憶を胸に
「佐藤、次は君の番だ。」
その声が響いた瞬間、スズは自分の名前が呼ばれたことを理解するまでに数秒を要した。午後4時、事務所には異様な静けさが漂っている。緊張で背筋を正しながら立ち上がると、スズはゆっくりと課長の前に歩を進めた。
課長の手元にある資料が一枚めくられる音が、やけに大きく聞こえる。
「次の勤務地は、漆師制御所だ」
その一言が、スズの心に波紋のように広がった。
漆師制御所――聞き覚えのあるその名前が、胸の奥に静かな炎を灯した。
12時間前。
夜の事務所は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。スズは一冊の古いノートをデスクランプの下で開いていた。その中には、これまでの現場で自分が格闘してきた痕跡がぎっしりと詰まっている。手書きのメモ、簡易的な図解、そして何度も書き直された計算式――すべてが、失敗と挑戦を繰り返してきた証だった。
虻川変電所で迷子になり、GISの巨大さに圧倒され、街中でラジオ放送を誤作動させた日々。火災対応の現場では、汗まみれで声を張り上げ、何とか収束に漕ぎつけた。安全管理の責任を初めて任され、恐怖で眠れない夜を過ごしたこともあった。
「これだけ失敗してきたのに、なんとかここまでやってこれたんだな……。」
スズは深く息を吸い、ノートを閉じた。ポスターに目をやると、電力網を描いた無数の線が、まるで自分の見てきた現場を繋ぐ地図のように思えた。けれど、その奥――まだ足を踏み入れたことのない「制御所」の文字が、どこか遠い異世界のようにも感じられる。
そのとき、主任の言葉がふと頭をよぎる。「佐藤、お前もそのうち、制御所で活躍することになるかもな。」
冗談だと思って聞き流したはずなのに、その未来の姿が目の前にちらついて離れない。果たして自分にそんな未来が訪れるのだろうか。
「佐藤、今日の16時に事務所に残れ。」
翌日、主任が告げたその一言が、スズの中で意味深に響いた。「16時……何かあるんですか?」問い返しても、主任は笑うばかりで答えない。だが真壁先輩が横から口を挟んだ。
「16時か……内示かもしれないな。佐藤、運命の時間ってやつだ。」
「運命……?」スズの胸に、得体の知れない高揚感と不安が入り混じる。
16時の鐘が鳴ったように、空気が張り詰める。
課長の静かな声が一人ずつ名前を呼び、異動先を告げていく。誰もがその瞬間を待ちながら、じっと息を潜めている。そしてついに、スズの名前が響き渡る――。
「佐藤スズ。」
立ち上がる足元が、かすかに震えていた。
「次の勤務地は、漆師制御所だ。」
スズは、その名前を繰り返す。「漆師制御所……。」
課長の続ける言葉が、スズの耳にしっかりと届いた。
「電力網の中枢を担う制御所だ。お前の経験は、必ずそこで活きる。」
背後から主任の声が響く。「現場を知るお前だからこそ、やれることがあるんだ。」
スズは胸の奥で小さく炎が燃えるのを感じていた。「私にできるだろうか……でも、やってみたい。」
その夜、事務所を包む薄明かりの中で、スズの未来が動き出していた。
制御所――それは挑戦の場であり、新たな自分を見つける場所になるかもしれない。スズの中で、不安と希望がせめぎ合いながらも、次の一歩への足音が静かに鳴り響いていた。
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