【電力小説第4章第3話】ループ
漆師制御所の空気は、日中よりも静かだった。数時間おきに響く警報音と、モニターの微かな電子音が、制御所内の時間を刻んでいる。
佐藤スズは、目の前の潮流監視画面に表示された電力の流れをじっと見つめていた。そこには、送電網を走る電力が一本の線として描かれており、その一部が何度も交差しながら環状になっている箇所があった。
「この部分、ループ潮流が起きてるんですか?」スズが神谷凛に声をかけた。
神谷は肩をすくめ、「まあ、そんな感じね。でも問題ない範囲。ループ潮流って、送電線が複数の経路で繋がってる時には避けられないものだから」と軽く答えた。
「でも、どうしてこういう流れになるんでしょう?これ、効率が悪いんじゃないですか?」スズの疑問はさらに続く。
福留翔太が割って入った。「効率が悪いのは確かだけどさ、大事なのはそのループがちゃんと管理できてるかどうか。ループインとループオフの位相差が、それぞれ10度と15度以内に収まってれば問題ないってわけよ」
「位相差……」
スズの声が反射的に漏れる。彼女の頭に数学と物理の公式が浮かび上がったが、それを現場でどう使えばいいのか、まだピンときていなかった。
「例えば、規則を超えた場合ってどうなるんですか?」思わず問いかけると、神谷がにやりと笑った。
「それを正確に計算できたら、技術者として一人前ね」
その時、柴崎当直長が不意に口を開いた。「計算してみろ、スズ」
スズは驚いて彼を見た。
「ループインやループオフが規則を超えた時、送電線に何が起きるか。それを具体的な数値で示してみろ。言葉より数字がものを言う世界だ」
スズはメモ帳とペンを取り出し、監視画面のデータを読み取る。送電端の電圧は500kV、受電端の電圧もほぼ同じ。送電線のリアクタンスが計算を簡単にするために10Ωと仮定し、まずは規則内の位相差で潮流を計算した。
「有効電力 $${ P= \frac {V1 V2} {X} sinθ }$$ ……」
スズは電卓を叩く。
「10度の場合、約4.4GW……これは許容範囲ですね」
「じゃあ、20度だったらどうなる?」神谷が興味深そうに尋ねた。
スズは式に値を代入し、計算を進めた。
「8.8GW……! こんなに潮流が増えるんですか?」
福留が頷く。「そう。位相差が倍になると、送電量もほぼ倍になる。送電線の限界を超えたらどうなるか、想像できるだろ?」
「さらに30度の場合……12GW近く……」スズは背筋に冷たいものを感じた。「これじゃ送電線が耐えられないですね」
「その通り。さらに位相差が大きくなると、周波数も乱れて同期が保てなくなる。つまり、全体が崩壊だ」柴崎が淡々と説明する。
スズは画面を見つめたまま呟いた。「規則って、本当に大事なんですね……」
「規則があるのは、そういう最悪の事態を防ぐためさ」福留が肩を叩いた。「だけどさ、それだけじゃ技術者としては半人前だよ。問題が起きた時に規則の範囲に戻す方法を考えられなきゃな」
その後、スズは計算結果をチームに報告した。神谷が笑顔で頷いた。「ちゃんと理解してたじゃない。最初はそれで十分よ」
福留も続ける。「次は規則外に飛びそうな時、どうやって戻すかを考えてみな。そこが腕の見せどころだ」
柴崎が静かにスズに視線を向けた。「今日やったことを忘れるな。計算だけじゃなく、実務でどう使うかを常に考えろ」
スズは自分のノートを見つめた。次は、もっと実務的な部分まで深く理解しなければならない。それが、今日の学びだった。
監視画面の向こうで、電力が静かに流れ続けている。どこか頼もしく、そして果てしなく冷静なその流れを見つめながら、スズは技術者としての一歩を踏み出しつつある自分を感じていた。