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【電力小説】山の事務所と訪問者


第6話「山の事務所と訪問者」

朝の訪問者

大狗おおいぬ電力センターでは、毎朝、業務開始前に全員で駐車場でラジオ体操をするのが日課だ。スズも他の社員たちと一緒に体操をしていたが、体は動かしても気持ちはどこかぼんやりしていた。

「上に手を伸ばしてー、左右に体を倒してー。」
上司がスピーカーから流れる体操音声に合わせて指示を出す。スズもなんとなくその動きを真似ていた。

ふと、何かの視線を感じた。隣の駐車スペースではなく、もっと奥。山の斜面からだった。

「……猿がいます!」
声を上げたスズに、体操を続けていた先輩たちはチラリと視線を送っただけだった。

「ああ、またか。珍しくないよ。この辺じゃ普通だ。」
先輩が笑いながら言うと、スズは肩透かしを食ったような気持ちになった。自分にとっては非日常的な光景でも、このセンターの人々には見慣れた光景らしい。

斜面の木々の間にいた数匹の猿は、興味を示しながらこちらを観察していたが、やがて飽きたのかどこかへと消えていった。


窓の向こうに現れた

その日から数日後、スズは残業で事務作業をしていた。時計を見ると18時半。すっかり暗くなった窓の外では、小雨が降り始めたようだった。

ふと気づけば、ブラインドが中途半端に開けたままだ。スズは立ち上がり、「閉めておこう」とブラインドの紐を手に取った。

その瞬間、窓の向こうに動く影と目が合った。

「……く、熊?」
スズは思わず息を飲み、ブラインドを閉じようと手を引き戻した。しかし、恐怖のあまり動けない。窓の外には、花壇をあさる大きな熊がいたのだ。


車のライトに驚いて

「どうしよう……どうすれば?」
スズが事務所内で慌てていると、外からエンジン音が聞こえてきた。同僚が仕事を終え、車で戻ってきたようだ。

「助かった……。」
スズは窓から遠ざかり、そっと様子をうかがう。車のヘッドライトが暗闇を切り裂き、事務所周辺を一気に照らし出すと、花壇の熊が驚いたように顔を上げた。

「行くのか?」
その一瞬、スズの心に期待が走った。すると、熊は足早にその場を離れ、山の中へと姿を消した。


山と共に生きる事務所

「いなくなった……よかった。」
胸をなでおろしたスズは、すぐに村の駐在所に電話を入れた。
「こちら大狗電力センターです。花壇に熊が出ました!」
警察が駆けつけてくれたことで、スズはようやく安心した。警官たちは周囲を確認し、住民にも注意喚起を行うと告げた。

「ここは山だからね。熊くらい出るのは当然だ。」
現場を見回しながら、年配の警官がぽつりと言う。その言葉がスズの心に重く響いた。

大狗電力センターでの日常は、山の自然そのものと向き合うことだった。猿や熊といった動物たち――その存在が脅威でありつつも、どこかこの地での生活の一部なのだ。


スズは夜の静寂が戻った事務所内で、しばらくその感覚を噛みしめた。山間部で働くということが、自分の思っていた以上に特別な環境なのだと改めて実感する。


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