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無いということと、無いことを考えるということ

死とは何かを考えるにあたっては、そもそも生きているとは何かを考える必要がある。生きているということは、私が存在するということである。だから、死とは私が存在しないということ、つまり無であるということだ。

もし仮に死後の世界があったとしよう。その場合「死後」というときの「死」は単に私の肉体の死を意味するのであって、生きているという事態が否定されるのではない。なぜなら、初めに定義したように生きているとは私が存在するということであり、「死後」の世界があると認識できている以上何らかの仕方で私は存在しているからだ。昔の人はこの何らかの仕方での私の存在様式を「魂」と呼んだのかもしれない。

さて、先ほど死後の世界を「認識」すると言った。そうすると、私が存在するということは即ち私が(何かを)認識することだと言うことができる。それで、存在するということがすっぽり認識するということと重なるわけだが、ここで多くの人は誤解してしまうようだ。

というのも、例えば、死が無であると認識する時にはその認識はどこまで行っても私が生きているということの内部でしか成立し得ないのだが、存在するかしないかという問題はまさにその成立し得るかどうかの点に関わるものであるのだ。つまり、何かを認識することが成立するかしないかのどちらであるかが、私が存在するか存在しないかの議論の焦点なのである。一方で多くの人は死を「認識」した上でその死について色々のことを考えてしまう。しかし、実際は順序が逆なのである。死について考えるということはその「認識」がそもそも成立しないという事態について考えることなのだ。

私たちはこの事態についていくら考えても、死が無であるということ以上の何物も理解することはできないだろう。だから、死が恐ろしいなどと言うことは、論理的に考えれば全く不可能なことなのだ。死という概念、あるいは無という概念は他のどのような修飾語も寄せ付けないような特別な概念なのである。


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