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3分小説 「会いに来てくれた君」

清瀬きよせ家』と書かれたお墓の前で、色部直八しきぶなおやは一人手を合わせる。いつも聞くことは同じだ。
(いっちゃん、そっちは楽しいですか?)
いっちゃんは、直八の近況も聞きたいのかもしれないが、報告するだけのネタがない。いっちゃんが亡くなってから一年ちょっと経ったが、直八は毎日くたびれることが多くなった。

いっちゃんこと清瀬一笑きよせいちえは、笑顔が可愛い子だった。直八が一目惚れして、お付き合いが始まった。お互い結婚も考えるようになり、両家の挨拶もしなきゃな、と思っていた矢先、一笑は事故で死んだ。突然すぎた別れに、放心状態になり、涙が出たのはしばらく後のことだった。寂しさと悲しさに支配された直八に、待ってくれない日常は容赦なく付きまとってきて、そのイライラも疲れる原因だった。

整理も切り替えも簡単にできないまま仕事を終えたある日、マンションの入り口に管理人の沖田由紀子とそばに毛づくろいしている猫がいた。
「おかえりなさい」
由紀子の言葉に猫は毛づくろいをやめ、じっと直八を見る。
「ただいまです」
一言返し、猫に一瞬視線を向けて通り過ぎようとすると、足元にくっついてきてついてこようとする。
「あら、一緒に帰りたいのかしら」
「管理人さんの猫ですか?」
「野良みたい。最近見るようになったけど、誰かについていくのを見たのは初めて。ペットOKだから、問題ないわ」
なんだか、そのまま飼ったら? と言われている気もするが、疲れているので、とりあえず早く家に入りたい。無視しようにも、歩きづらいくらい足から離れない。玄関を開けると、迷いなくすぐ入って一段上がったところから、振り向いて顔を見てきた。
「なんだよ……」
頭がうまく働かず、いろいろ考えるのが億劫で疲れがたまってたこともあり、ろくに世話もせずその日は寝てしまった。そのせいか起きた時、目の前に猫の顔があったのにはぎょっとして驚いた。そこから猫は直八の家に居座るようになり、飼ってるのか微妙な同居生活が始まった。一笑と直八はふたりとも犬派で、飼った後のことを想像してよく話していたが、比べて猫の話は少ないうえに知識はあまり持ち合わせていなかった。だが、世話に不慣れなことがあっても猫はさほど気にしていないようだった。気持ちが整理に向き合う準備ができた時、直八がふとこぼした「いっちゃん」の言葉に猫がにゃあ、と反応した。初めて聞いた鳴き声に驚いて猫を見ると、目を細めたり、パチパチ瞬きしながらもう一度にゃあ、と鳴いた。それからも直八が「いっちゃん」と言った時だけ猫が鳴くようになった。もしかして姿を変えて会いに来てくれた? 一瞬そんな風に考えたが、前にそう呼ばれていたのかもしれない、と思い直した。直八についてきてから、家の中で自由に過ごしていた猫だったが、出勤する時一緒に外に出ようとしたので、「夕方まで入れなくなるぞ?」と声をかけたが、それ以上特に気にも留めず、好きにさせることにして鍵をかけた。その日から猫は帰ってこなくなった。

突然会えなくなる痛みを知ったはずなのに。一笑の生まれ変わりにすら見えて、猫との毎日が楽しくなってきたところなのに。自分を殴りたいほど、直八は激しい後悔に襲われ、生活はまたもや忙殺される日々に逆戻りした。

つまらなくなったと感じる生活が三か月を過ぎたあたりに、姿を見せなくなっていた猫がマンションの入り口にいた時には、うれし涙で視界がぼやけるほどだった。ただ、一つだけ違ったのは子猫が横にいて、母猫になっていたことだった。その時、直八の耳にはっきりと一笑の声が聞こえた。
「子どもができたら大変だろうけど、さらに楽しくなりそうだね」
あぁ、そうか。
「いっちゃん、生まれるかもしれなかった子どもを連れてきてくれたんだね」
答えるように母猫はにゃあ、とひと鳴きして子猫を舐めた。
「会わせてくれてありがとう。いっちゃんが心配にならないように、ちゃんとさみしがって、ちゃんと思い出して、ちゃんと生きていくよ」
一笑があまりにも見てられなくて、元気づけようとしたのかもしれない。そのおかげか直八は一人でもまた笑えるようになった。その頭上には背中を押すように、また直八の心を象徴するかのように、清々しい青空が広がっていた。



(おわり)

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