あいの惑星
人に優しくする事はどんなに無償だとしても、回り回って自分の為にしているに過ぎない。
そんな斜に構えた考え方がいくら浮かぼうが、誰に対しても柔らかく暖かい人で居たいと思うのは愛という魔法じみて曖昧な概念が持つ力を信じて止まないからだと思う。
愛じゃご飯は食べられないし、誰かからの、又は誰かへの愛を言葉にしてしまえば一気に陳腐なプロモーションに成り下がる気がするから、概念の枠から外して形にする事に意味を感じられない時がある。
でも、それでも愛の歌を聴くし、愛の詩や絵に涙するし、愛をテーマに議論をする。
最も崇高で、最も都合が良いから。
世間は往々にして、愛や優しさを求めるくせに、冷たい手でそれに触る。
受け取る手に既に僅かでも愛や優しさが無いなら、余程の熱量を込めたものでないと直ぐに冷めて当たり前だ。
握手がしたいなら手を差し出すべきだし、話を聞いて欲しいなら相手の話を聞くべきだし、愛して欲しいなら愛を持って人に接する事が前提なんじゃないのか?そりゃ怖いけど、疲れるけど、間違える事だってあるけどさ。
全部が全部すぐに返って来ると思っていたら、人生に早々に飽き飽きしてしまう。
人間関係は気長な作業だ。釣りや、ガーデニングに似てる。根気と暖かい時間が必要だと思う。
餌や種を撒くと言うと聞こえが悪いかもしれないけど、でもそんな風に自分を開示して行けば、その分人と触れ合う機会は増える。大丈夫だよ。
私達がこれ程までに健やかで今この瞬間まで生きているのは、生まれた時誰かの腕の中で愛を受け取ったから。その味を覚えているから。きっと神様か誰かが、忘れる事の無いようにと塩味にでもしたんだろう。寂しい時、物足りないとき、いつでも思い出せるように。
だからきっと愛はしょっぱい。
きみは今孤独と淋しさに包まれて安心していたいのかも知れないけど、とても無慈悲なお知らせ。誰からも愛されない人なんてほんとは居なくて、何をしても愛される人も居ない。運の良い人は居るけど。だから泣かないでいじけるのをやめて。
愛はこの世に無数に散らばって長い長い時間をかけて様々な姿形になった。それは私達生き物が進化してきたのと丁度同じように。
仮にはじめから与えられる愛が決まっていて、愛される人と愛されない人が居るのだとしたら、人間関係なんて全部八百長だ。ちゃぶ台返してこんな惑星さっさととんずらしてやる。
何をするにも、その起源には愛があって欲しいと思うし、地球の真ん中は内臓のように熱い。いつの時代もディズニーやジブリ映画が愛されて、この世界に音楽が止まないのは、きっと私達が愛を信じているから。
この惑星は渇いた大地を潤す水に覆われている。
てことは海水は伏線!?!?
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