鳥ほどの脳みそで思う事。
詩じゃなくて文章。
フリーターになってからやけにスラスラ書けるから、noteにも書いちゃうっ。今、超躁✩.*˚
表現がしたい。何かを作っていたい。
そんな事を意識的に思いながら絵を描いて、歌を歌うようになったのはいつからだろう。
幼い頃は、それら全ては口で話すのとさほど変わらなかった。なんなら、ただでさえ饒舌な私が、言語を超えた何らかの形で更に喋り倒して居られる事がちょっと心地良い程度で、口で喋って、絵に書いて、そこからまた口で喋って、飽きてきたら歌いながら喋ってた。
小さな詩人だったなー。
映画も絵本も小説も絵画も、漫画も紙芝居も大道芸もごっこ遊びも、会話も喧嘩も独り言も、全部大好きだった。全部がその時本当に起きてた。
うきうきと世界を歩き回って、巡り会って、その度に本当に心が蠢いていた。
このように、私は生まれた時からZ世代だった訳じゃない。というかみんなそう。
時代の変化と鉢合わせて、情報がジョウゴのように身体に流れ込んで来て、交わし合うものだと思っていた"姿を変えたお喋り達"には値段が付いている事を知ってから、幼い詩人は1つ姿を変えた。若者に。
若者なりに分かったこと。
この世界は棲み分けされている。
職場、住んでる地域、家柄、趣味、宗教、カルチャー、セクシャリティ、無限に細分化されていく棲み分けを、身が引きちぎれない程度に橋をかけ、行き来しながら暮らしている。
特に私の暮らす東京は蜂の巣のように沢山の部屋があるような感じがする。
山手線を一駅ずつ回れば、建物、人、食べ物、匂い、服、それぞれお揃いのような複数が街ごとに点在している。
世界でも類を見ない広さの都市を網目状に行き交う路線はまるで時の回廊だ。
駅の、街の名前がハッシュタグになって、ブランドになって、人の名前の横に鎮座してる。
その類似性の由来は何処だろう。
その街に根付くイメージを求めて人々が集まるのか、集まった人々の共通点によってイメージが構築されるのか。
人が街を作ったのか、街が人を作っているのか。ニワトリか、卵か。
オレンジ(果物)か、オレンジ(色)か。
この答えは恐らく、どちらもなんだと思う。
(曖昧な答えはそれらしい言葉で聞き手を誤魔化し騙しているように聞こえるけど、逆を言えばハッキリと片方を断言する事は議論との断絶を意味する。だからもうちょっと聞いてくれ。)
私はこの1つの答えは、生命の抱く疑問の多くに対応していると思ってる。
ニワトリが先か、卵が先か、どちらが先でも良いし答えは無い。
分からない。人生に意味があるかなんて。悲しみはいつか消えるかどうかなんて。昨夜殺して隠したあいつが本当に悪い奴だったかなんて。この出逢いが運命なのかなんて。分からない。
どちらでもない。
それでも、殆ど毎日、そんな事を本気で考えている。
そして殆ど毎日、風船を空に飛ばすような気持ちになっている。
1人で考えているから余計に心は反響してる。
だから若者になった私は友達を作った。
一緒に頭を捻ってくれる友達、1つの答えを教えてくれる友達、そんな煮詰まった考えを飲み干して笑い飛ばしてくれる友達。
みんなが大好きだ。
とはいえ、思考や行動は如実に周囲の環境を形成する。だから自ずと上で話した中でも一緒に頭を捻ってくれる友達が多くて、特別に信頼している所もある。
あなたが片腕にニワトリを抱えて、もう片手に卵を握って交互に見詰めながら頭を捻っている美しい姿をもっと見たいなぁと思う。
別にそうしろって言ってる訳じゃなくて、ただ、多分そうして言葉や場所や時間を選んで生き方を試して行くという事は、とても豊かで芸術的な事だなと思う。
人が生きること自体芸術なんだけど、なんかこうもっと、厚みのある、油絵のような絵柄のもの。
そんな感じ。それを見てみたい、あなたのそれを。そしたらきっと、今よりもっと貴方のことを好きになれる気がするから。
あ、いや別にそんな急ぐつもりはないよ、全然。見れたらいいなぁくらい。
と、泊まりに行ったりするようになったら、知れるかなぁとか、、笑
きもいか、ごめん。
何の変哲もない人間の子供で、ちょっとだけ周りより散漫で、運動が出来なくて、本気で不思議の国へ行けると思って園庭の茂みの中を這いつくばってた女の子は、十余年くらい経って、キョドりながらも素敵なあなたと知り合おうと今日もキョロキョロ街を歩きます。ニワトリみたいに。
クックドゥードゥルドゥー。
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