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教科書教材「やまなし」に なぜ「イーハートーブの夢」を挟むのか?

宮沢賢治の名作「やまなし」はそのままで幻想的で自然を通じた独特の世界観を持つ作品です。
そこに、他の作品や解説を挟むことによって、賢治独自の空気感やテーマが分断され、作品自体の持つ詩的な響きが薄まると感じています。

先日、参観した子どもたちが授業課題「なぜ、題名が「やまなし」なのか」に取り組んでいました。とてもよく発言して、授業自体は見事でした。しかし、子どもたちがたどり着いた答えに関しては疑問を持ちました。それが上記の疑問です。

教育的な観点から言えば、教科書が「イーハートーブの夢」を挟む意図は、宮沢賢治の世界観や思想をより深く理解させることかもしれませんが、賢治の作品に対して価値を認め、読書体験を重視するならば、異なる作品を挟み込む構成が適切かどうか気になります。
読書は個人の自由で、作品の背景などを知りたくなった子どもたちが図書館やインターネットで調べる余白が必要なのではないかと考えています。最初から準備するのは如何でしょうか。

「やまなし」は生と死、自然の循環や命の儚さといった深いテーマ等を扱っていますが、「イーハートーブの夢」を挟み込むことで、子どもたちの解釈がそちらに引きずられてしまい、宮沢賢治が描こうとした純粋なテーマから離れてしまう可能性があります。特に、賢治の作品は詩的で象徴的な表現が多く、読み手の想像力や感性に委ねられる部分が大きいです。外部の作品が加わることで、子どもたちの読み方が「イーハートーブの夢」の影響を受けすぎて、賢治の持つ独自の世界観や深いテーマから薄れてしまう恐れがあり、それが子どもたちの発言に影響を与えていました。話し合いが、「イーハートーブの夢」を根拠としてあげる子どもたちもいて、読みとして、「やまなし」そのものを離れて混乱を招いていました。

「やまなし」の生と死等のテーマに子どもたちが自然にたどり着くのではなく、外部からの要素によって解釈させられる感覚があるならば、その挿入の方法や順序が教育的に最適であるか再考の余地が必要だと思います。

カニの兄弟がクラムボンや、カワセミ、やまなしを通じて体験する出来事は、単なる自然の描写にとどまらず、何かを「理解する」プロセス、つまり言葉や知識の獲得を象徴しているとも捉えられます。特に、彼らが新しい体験を通じて世界を学び、少しずつその意味をつかんでいく様子は、知識の獲得や成長の過程を象徴しているように感じます。
賢治の詩的な表現は、現実の自然界の事象を超えて、内面的な成長や学びを表現することが多く、「やまなし」でのカニの兄弟が体験を通して、父から学び、それを言語化して言葉や知識を獲得し、成長していく姿として読むことも可能です。わたしは、この解釈が「やまなし」の核となる概念と捉えています。作品そのもので読むことができます。

この視点から考えると、賢治の意図した「やまなし」の象徴が、生き物としての本能的な成長だけでなく、知識や言葉という人間の本質的な学びの過程も含んでいると解釈できます。
いかがでしょうか。「やまなし」一作品で授業を創造したいものです。



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