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信達譚 泥の橋

(承前)

 陽あたりの悪い病室を出て、暇があれば眺めのいい窓際に通う。俳句と蚕種の家伝を見ながら、信達の叔父や安曇野の先輩はおろかLAのキューレターにまで連絡をしては、ライフワークを気取ってみたが、流れるばかりの細い筆書きはもとより読めるわけもない。写経よろしく綴りの真似事に筆を執るほど気落ちするばかりで、万年筆に持ち替えた。
「しんだつ、じゃなくて、しんたつ、だからな」
 車の助手席に父を載せて信夫と伊達を最後にひとまわりしたのは、ひさかたぶりに参った湯殿山で先達に会った6月末だった。
「やいでみろ」
 助手席の父にうながされるままに車を出して畑に着いた。父は片足をひきずるように土の上をはいながら茄子に紐をかけている。
「あっちのささぎにもひもかけるからな」
 言われるままにささぎの細い枝を地面に突き刺した竹にひもで結び終えた頃には息があがっていた。おおきな木陰の下にキャンプで使う折りたたみ式の椅子を設えた。
 古民家でも見かけなくなった古いくぐり戸を抜けると炎天下の交差点だった。はす向かいのコンビニの裏手に交番があった。いつだったか、父が財布をなくした時に行ったことがある。制服の警察官が笑顔を浮かべながら、父に柔道を教えてもらったと親しげに話していた。父はあたかも惚けはじめた老人のように表情ひとつ変えなかった。長い世間話をうんざりしながら聞き流しているのだとばかり思っていたが、そうではないと知ったのは小声で耳打ちされた時だった。
「いいか。おれはあんなやつに柔道を教えたおぼえは一切ないからな。話を聞き出すために柔道の話を持ち出したことだけは、よく覚えておけ」
 それからしばらくふたりで自慢げな柔道の話を聞いていた。父がだいぶ前から柔道を教えるのをやめていたのはよく知っていた。息子にさえ教えなかったぐらいだ。中学生になっても悪さをする度に背負い投げをくらっていたから、今でも受け身だけは得意なほうだが、交番で聞いた話はそれだけではなかったのだろうと思っていた。小一時間もかかって「落とし物」の手続きを済ませて車に乗った。
「行くぞ」
 父に言われて車を出そうとしていると看護師さんに呼び止められた。点滴をする時間だと告げられて病室に戻る。それから半日がかりで、皮膚の下をのたうつ青白い静脈に抗癌剤が流れ込むのを眺めている間、助手席の父に連れられて登った山や投網を投げた川の話を聞いていた。
 窓の外に広がっている果樹園は、戦後はまだ桑畑だった。信夫山の岩屋下は奥州街道沿いで、国見の阿津賀志山から七が宿を過ぎれば出羽へ至る。祖父のお墓があるのは拈華山の三乗院で、阿武隈山系の北端にある霊山は奇岩だらけの修験の山だった。父のお墓を買うことになるのは畑の向こうにある位作山だが、まだ知る由もない。
「おまえが中州に取り残されてダンプ借りて迎えに行ったのは茂庭だった」
 山のいただきから眺めると、伊達市と隣接した福島市は、ひょうたんの形をした盆地で、ふたつの町を貫くように阿武隈川が流れている。土湯の荒川は高湯の瀬川と合流して福島駅の南で阿武隈川に注ぐ。滝壺でイワナを突いていた摺上川は飯阪温泉を抜けて瀬上に至る。霊山の裾野を流れる広瀬川が合流するのは盆地の北に位置する柳川である。台風で幾度か堤防が決壊した難所だった。やがて大森と角田の渓谷を経た先で大河となり、津波で壊滅した太平洋岸に流れ込む。飯坂温泉まで鮭が遡ってきたという阿武隈川の原型が整ったのは、蚕と舟運が盛んだった江戸時代にさかのぼる。幼い頃にはすべての要所を信達軌道の路面電車が縦横に結んで走っていた。
「広瀬川にかかっていたのは泥の橋で雨がふるたびに流されて造りなおしていた」
 父に連れられて橋の近くの雪山へ登ったことがあった。ごつごつした岩肌にへばりついて鉄ばしごを掴む。吐息が煌めく粒子となり、透明な光となってふり注いでいる。鎖にしがみついたまま、長靴を履いた足を踏み出す前に、新雪に杖を穿って確かめる。蟻の門渡りは霊山の分水領だ。足を踏み外せば絶壁を谷底まで滑り落ちてしまっていたはずだ。谷には相馬と福島市内をむすぶ国道が走っている。国道の向こうは飯館村で、虎捕山の大岩がそびえている。正月に山津見神社の裏手からロープ伝いに山頂まで登っていくと、雪に埋もれた小さな社で必ず神主が待っており、熱い甘酒を呑ませてくれた。
「ゴルフ場にある縄文遺跡は防空壕だった」
 抗癌剤が終わって畑に戻った。父はまだ土の上を這うように移動しながら肥料をあげているところだ。木陰に置いた椅子の向こうに見える木に何かが実をつけている。父がリンパ腫を患ったのは震災の前で、畑にあの木を植えたのは震災の後だった。誰が植えるのか決めるまでもなく父が家族に言った。
「植えた人が死なないと甘くならないからな」
 誤嚥と肺がんで看取った時には十年以上がたっていたが、木には実が熟しても、リンパ腫は再発しなかったのだ。大腸をまるごと採りだして詰め直すほどの検査をしたのは、震災の前に二年も続いた抗がん剤治療治療をはじめる前だった。ひと昔前ならば白血病だったのだと医師から説明されたのをよく覚えている。今なら息も絶え絶えの腹を数十センチも切らないで、こうして抗癌剤治療をできたのかもしれない。後になってわかるのは今でも同じだ。歯科医の友人が郡山でBNCTをやっていると教えてくれたことがあった。ウェブサイトで調べてみると、症例的には該当していたが、ちょうどやっていない時期だった。
 病室に夕食が運ばれてきた。痛み止めを塗っても痛い口に食事を流し込む。涙をこらえて飯を食いながら病室に貼ってある葉書を読み直した。四隅が黄ばんで汚れた葉書に母のつたない文字が綴られている。
 父があの五寸釘で組み立てたような頸椎を埋め込んだのは、リンパ腫でも肺がんでもなくて、風邪をひいて一週間ばかり寝込み、起きあがった時に椅子に手をかけたばっかりに、椅子ごと滑って転倒したからだった。交通事故に遭う確率のほうが多いはずだと思いながら車を飛ばして父の見舞いに駆けつけた。角切りのリンゴに爪楊枝が刺さっていた。口に運んでも食べられそうにない食事を眺めていた。骨を移植して頸椎を再建する大手術をしてからも数年間は、認知症の母の介護を続けていたのだ。
「農家に生またからな。戦時中でも食う米はあった。身体が弱くてはとっくにくたばっている」
 戦前生まれだからと話していたが、それだけではない。身体も気力も腕力も強靱どころではなかった。
 消灯の前にひとけのない病院の廊下を歩いてコンビニに着いた。父と畑に行ったあとで食べたのとそっくりの冷やし中華が並んでいる。おれはまだ入院中で、1年後の誤嚥も血痰もまだ知るわけがない。痛くて我慢できない喉のうがい薬と、カッターナイフを持ってレジに並んだ。抗癌剤を投与したばかりの手首の血管が青白い蛍光灯の明かりに照らされている。
 コンビニを出ると廊下を歩いて夜の窓際へ戻り、畑のあるぐぐり戸の中へ引き返した。日射しを避けて木陰に座っていた父の姿が見えるわけもない。
 薄暗い病室の冷蔵庫を開けて届いたばかりの桃を取り出した。毛ばだった桃の皮をカッターナイフでむこうとしたがうまくいかない。父の刃物は、はさみの刃でも指先が切れるほどだった。階段をおりてすぐ下にある物置の引き戸を開けると、棚に並んでいた砥石だけでも六種類はあった。畑から帰った夜に父からもらった鞘にはいった包丁は昔から持っているドスだった。父が亡くなった晩に鞘から抜いて刃に指先をあててみたが、切れない。もしこれが研いであったら切断されていたはずだと怖くなって神棚にそっと置いた。
 カッターナイフで桃を切り損ねた指先が滑る。抗癌剤の直後に切れたりしたら出血は止まりそうにない。それどころか、感染症、という言葉が頭をよぎる。父がいつも仕事机の上に置いていた木製の古い書類入れの引き出しを開けると、傷薬のチューブが入っていた。キャップをあけるとセメダインの匂いが鼻についた。臨終の病室にあった粗末な荷物のひとつだったのを思い出した。指先の傷ならセメダインで固まりそうだが、畑の土の上を這うようにして肥料をやっていた父の指先はセメダインで固めても固まらないほどただれていた。畑から帰った晩も、固まらない指先で青い蓋の容器をこじあけて身体じゅうに軟膏を塗っていたのだ。何度も見ていたはずなのに。あの指先で畑の土をいじっていた父と、近くの交番に行って話を聞いた時にもわかっていなかった。神棚に置いた刃と、六種類の砥石。柔道三段の父は人を生かす仕事をしていた。最後にドライブした時にも話してくれたが、ダンプごと家に突っ込んできた運転手を治すばかりか家にかくまっていたのは子供心に覚えていた。
「あそこだ」
 父に言われて車を止めたのは、この桃をわざわざ病室あてに送ってくれた友人が営む青果店だった。いつも笑顔を絶やさない店主は、今年の桃はめちゃくちゃ甘くておいしいと教えてくれた。畑に熟していたあの実もすでに甘くなっていたはずだ。
 父の通夜の晩。施設の方に無理を言って母を連れ出した。五十年以上も一緒に生きてきた父と対面する一部始終を家族と近親者が見守っていた。母が唯一言葉を発したのは、畑から採ってきた熟した実を手に取った時だった。
「あんず」
 味わうのはすでにかなわなくなっていた母と父を想い、桃にかじりついた。あんずより甘いはずの桃から熟した汁だけが滴り落ちた。窓の外は闇。泥の橋にも、風は吹いている。


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