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『与えられた数より小さい素数の個数について』 の事

「君が素数をノートに書きはじめたのは小学生の時だ。経済学を学んだ君に、流体力学におけるベルヌーイの定理について、説明はいらないはずだ。
 リーマンによると数は2からはじまることになっている。君はそれを1から書きはじめたはずだ。十九世紀の天文学者のようにね。
 君の母親が迷子になった場所はわかっているの? 女神山の近くだったと書いていたじゃないか?
 君がはじめて散弾銃を撃った山のすぐ近くだよ」

 猟犬を連れて父と雪山にはいった時だった。父の真似をして散弾銃を構え、銃口の先端にある標的を捜した。雑木林の枝しか見えない新雪のどこを狙って撃てばいいのかわからなかった。尾根でも谷でもない見通しがいいところに枯れ枝しかない大きな木が生えていた。枝に囲まれた木の幹に狙いを定めて引き金をひいた。乾いた音が雪に吸い込まれただけだった。

「君の愛犬の名前はなんだったかな?」

 ボールペンを借りて「ムー」と書いた。血統書もなかったセッターとポインターの雑種だったムーが、ここぞとばかりに新雪の中を駆けていって、なにかを咥えて戻ってきた。雀のような小さな鳥だった。父の後をついて木の真下まで歩いていくと、白い雪に赤い血の跡が沈んでいた。怖じ気づいた足元にも、また別の血痕ができていた。父は散弾とはそういうものだと教えたかったのだろうと思っていた。
 
「遠くから眺めてもわからないものだよ」

 俺は革ジャンのポケットから分度器とたこ糸のようなものを取り出した。糸の先に小石を結わえつけた。糸を垂直につるして、海沿いの光を見ながら分度器をあてた。方位磁石を取り出して角度と方向を確かめた。


「航海図に線を引くには三角点を使えないんだ。船乗りなら誰でも知っている簡単なことだよ」

 何度か繰り返しながら地図に目印を書き加えていった。

「驛」からトンエルの手前までちんちん電車の線路を引いた。
「辻」の先に「特定緊急避難区域」と「原発」を書き加えた。
「驛」と「辻」と「原発」を繋ぐ線を引いた。
「日本」と注釈を書いてからX印で地図から消した。
「原発」の沖にある太平洋に「戦艦」を書き加えた。
「三沢」と「B29」と「戦艦」を三角形の線で囲んだ。
「アメリカ」と書いてX印で地図から消した。

 日本とアメリカが消えた地図に大きな文字で書いた。

「信達」

 完成した福島の地図をしばらく眺めていた。

「これを君に渡しておこう」

 分度器と方位磁石と糸を地図と一緒に封筒に入れた。

「運転は頼めるかな?」

 言われるままに運転席に座ったが、ミニクーパーは英国車だというのにハンドルが日本車と同じだった。ルームライトを灯けてノートを取り出した。震災の二年後に、エリア51へ行った時のノートをめくった。

「君が乗っていたのは友達のピックアップトラックだ。エリア51へ行ったのはラスヴェガスで一泊した翌日で、帰り道で車を運転していたのは君の妻だったはずだ」


 俺はノートから顔をあげた。

「君はあれから何年たったと思ってるんだ?」

 地図がはいった封筒を見ながら応ようとして愕然とした。

「君は北極星がどこにあるのかわかっているのかね?」

 北斗七星を捜したがすぐにはわらなかった。

「北極星という星は、存在しないとされているんだよ」

 俺は青いマーブル模様の古めかしい装丁の本を取り出した。

「これは君もよく知っている、ピエトロ・トグニーニについて書かれた唯一の本だ」

 古めかしい本をめくりながら、俺は昔彼に送った絵を描いてみた。

 底が透明なキャラフェに半分まで水を入れる。
 覗き込んだまま眼にあてる。
 水がこぼれないようにして顔をあげる。
 水平線の上と下を同時に見つめる。
 
 表紙を描き終えると、黒いトランクケースを開けた。新しいノートを取り出して北極星の正確な位置を割り出す複雑な計算式を書いてみた。

 紀元前 1200年 こと座α VEGA 
 西暦 13500年 こと座α VEGA

 表と裏を確かめてから黒いトランクケースに本を入れた。 
 
「ひとつだけ説明しておこう。これはあくまでも計算上の時間と空間によるものだ。僕がいちばん嫌いな、机上の空論というやつだよ。個体と空間によって変わるのは、君ならよくわかっているはずだ」

 車が一台もいない高速道路を走っていくとトンネルが見えてきた。このままトンネルに入ればまた引き返せない。長い洞穴のようなトンネルを走り続けた。

「どうやら僕は話しすぎてしまったようだね、僕が君に断言できるのはたったひとつのことだけだ。水平線を見ることがあったら思い出してみてくれないかな。どうして素数が2からはじまることになったのか。時間も空間も関係のいないふたつの世界が同時に見えるはずだ。君と僕とは同じ母から生まれた時は、ひとつの同じ個体だったはずなんだ」

 クリニックの駐車場を見つけてミニクーパーをとめた。

「あとは君次第だからな」

 車からおりようとすると、俺がICUのステンレスのドアの奥にある個室に運び込まれていった。


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