「手紙というのはやっかいなものだからな」の事
「手紙というのはやっかいなものだな。君もよく知っている作家と長話をしていたら、「たまには電話じゃなくて、手紙を書いてみるのもいいものですよ」と言われたから、「そうですね。子供の頃から、落ち着きがないと成績簿に書かれていましたから」と言いながら、徘徊したまま迷子になった母から届いた葉書のことを思い出したから、「受け取ったほうの身にもなってみてくださいよ」とつい口走ってしまったら、「君はいつも思いついたそばから書き殴ったような訳のわからない手紙を平気で送りつけてくるからな」と苦笑されたので、「すみませんね。僕の悪癖に付き合っていただいて」と謝ってから、「ところでどんな内容でしたか?」とわざと間抜けな質問をしながら、君の手紙の話を思い出していたんだ。君が子供の頃に女の子に宛てて書いた手紙を、何十年かぶりに会ったすっかり大人になった彼女から渡されて驚いたと話していただろ? どんないきさつでそんな顛末になったかなんて、君の人生を覗き込むようなやぼなことは訊かなかったが、書いたことすら忘れていた手紙を読み返した君がどうして驚いたのか今でもよく憶えている。君は手紙の最後の一行に、「僕は大人になったら、人形劇団の一座を引き連れて、世界中を旅するんだ」と書いてあったと教えてくれたじゃないか。君は大人になってから、暇ができれば世界じゅうを旅していたから、手紙に書いてあった通りの人生を生きることになった訳だが。 「でも考えてもみてくれよ。人形劇団の一座を引き連れて旅をするなんて、おかしな話だろ?」と君に言われたのを思い出して、あの本を開いてみたんだ。彼がリスボンから送ってくれた、ピエトロ・トグニーニの本だよ。僕はポルトガル語はからっきしわからないけど、水色のマーブル模様の古めかしい装丁の本をめくると、リスボア書店、と書いてあったから、リスボンの裏通りにあるリスボア書店で、彼がこの本を見つけて手に取った時みたいに、いつも持ち歩いている黒いトランクケースから取りだして、ひさしぶりにめくってみたら、裏返った葉書が一枚はさまっていたんだ。本はめくるのに、何年も前に母から届いた葉書を裏返してみたことがなかったんだから。
それが、つい今朝のことだったんだ。いつものように東京から車を飛ばして、信達の実家について、なかなか玄関の鍵が開かないから、ドアをがちゃがちゃいじっていたら、近所に住んでいる親子連れが、不審人物でも見るように立ちどまっていたから、わざと大きな声で「ただいま」と言いながら、やっと鍵をこじ開けて、誰もいない実家の食卓で、ピエトロ・トグニーニの本をめくってみたら、何度も読み返したはずの葉書が挟まっていたんだ。表返しになって。いや、なんとお礼をしようかと思って、手紙を書いているんだが。こんなまわりくどくい手紙だったら、どこかに散歩にでも行かないと、君の部屋じゃ狭くて裏返せないかもしれないな。僕はいつも車の中で手紙を書いているから。今も実家のすぐ隣にできたばかりのドラッグストアの駐車場で、君に手紙を書いているんだけど。
車でここを訪ねてみたのは、かれこれ十年ぶりなんだ。どこかって? あの家だよ。ほら。君が十八歳まで住んでいて、交差点の角にそこだけ出ぱったように建っていた。おおきなザクロの木が生えていて、君も一緒によく酸っぱい種を食べてただろ? 行く前から何もないのはわかっていたけど。おかしな話だと思わないか? とっくに引っ越してなくなった実家から葉書が届くなんて。そうなんだよ。実は、届いた時も、君は届いていることを知らなかったんだ。何しろ旅行をしていて、日本にいなかったんだから。
大事なことを忘れるところだった。君が人形劇団の話を教えてくれたのは、ホワイトサンズでレンタカーを飛ばしていた二年後だった。突然国際電話がかかってきて、「福島が爆発して日本地図から消えたぞ!」なんて言われても、空港へ君を迎えにいって、きのこ雲みたいな写真が載っている新聞を見るまでは、何の話をしているのかわからなかったからな。
空港を出てみると、車の外はもうすっかり暗くなっていて、君は車の窓から北極星を見あげながら、「ピエトロ・トグニー二が、どうして西へ向かって歩いていったのかわかった!」と大声で叫んでいたけど、僕はてっきり忘れていたんだ。十年間もたってから、今乗っている車のハンドルが逆だったと車からおりようとして気がつくようなものだよ。
「ピエトロ・トグニーニの話をしようと思ったのは、あの北極星のせいさ。君が動かないといったあの星のことだろ?」と言われて、夜空を見あげながら、君はようやく思い出したんだ。ピエトロ・トグニーニがどうしてアテネで発狂したのか。つまり彼は星を眺めすぎていたんだ。毎日同じ時刻に夜空を眺めてはすべての星を数えようとしていた。
「まるでロココ調の絵を遠くのほうから虫眼鏡で見るようにして」だなんて、君らしい言い方だったが。そう、何十年もの間だ。同じ星空は一年に一回しかやってこないからな。確かに、ピエトロ・トグニーニはそんなふうにすべての星を数えようとしていたんだ。
毎日、真夜中の十二時きっかりに、星の数を数えていたのに、一年前の同じ日の星空をおぼえておくことができなかった。何十年間も繰り返しても自信が持てなかった。そこで、彼は次の日に、同じ星空が見えるところまで、ちょっとだけ移動することにしたわけだ。ルネと同じ八十歳過ぎにもなって。君みたいに。そうだよ。長い旅に出たんだ。君がパリのアパートで書いた本にはこう書いてある。
「彼は、ある日アテネのホテルでボーイに告げた。十二時前には必ず起こしてくれ。彼は十二時ぴったりにアポロンの丘から夜空を眺めた。そして発狂した」
「アポロンの丘はそんなに高いのか? 星に近づけるるぐらい」と君に言われたけど、どう応えていいのかもわからなかった。北極星を見あげていた君は、「それはつまり、君の国と僕の国の時計が違うってことさ。西だ! 彼は西の空を目指していたんだ」と言いだしたんだ。福島は東のほうなのに。
二年前にレンタカーでホサイトサンズを走っていた時に撮影した写真を封筒にいれて、この手紙と一緒に送っておくから。アルカリフラットを訪ねた時にフィルムカメラで撮影して、今時珍しいバライタの印画紙に現像した貴重な写真だ。君が撮ってくれたレントゲンと比べてみれば、信達の写真じゃないことぐらいすぐにわかるはずだから。だいたい君はいつも思いついたそばから書き殴ったような訳のわからない手紙ばかりってくるからな。受け取ったほうの身にもなって考えてみてくれよ。人形劇団を連れて旅をしなかった君が、どうしておれに手紙と写真なんか送ってきたのか? じゃあ、そろそろ、君と待ち合わせの時間だから。もし、信達についておれがいなくても、心配はするなよ。後でも読み返せるように、この手紙は封筒に入れて、いつでも出せるようにしておくから。交差点のはす向かいのコンビニにも小さなポストがあって、君の住所はしっかり封筒の宛名のところに書いてあるから。無事に届くといいけど。届かなかったら、おれの手元には二度と戻ってこない手紙だからな。もし無事に届いたら、きっとわかるはずだ。どうしてピエトロ・トグにニーノの本に挟まっていた葉書を裏返して驚いたのか。無事にここまで読んだら、最後に葉書を裏返してみてくれないか? そうだな。できれば、僕が本に挟まっていた葉書を裏返した時みたいに。手紙というのはやっかいなものだからな」