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養蚕と俳句 「SILK to HAIKU」  の序

 この一週間ほど大学時代の経済学部のテキストと、現代のそれとを読みくらべていた。80年代末に経済学部で使っていた教科書を、今また読み返してみると、かなり面白い内容である。
 報道されている実体経済を見れば、NOTEの株価が二日連続ストップ高をつけているらしい。JPXのウェブサイトに値幅制限の拡大について公開されていたが、すでに「人が書いた」のみならず、AIで生成されたばかりか、下手をすると書くそばからAIの元ネタになっているかもしれない「創作」がごまんとある。EUのAI法案だとか、AIによる制作物に対する著作権問題だとか、書きはじめるときりがないのだが、こうしている間にも、状況が刻々と変化しているのは、書き手も読み手も、折り込み済みなのだろう。
 N社の投稿がG社の生成文の元ネタになったからといって、A社のアレ同士で会話させたらハルシネーションどころか、FUCK(AIでXXXになりそうだけど)までいきそうな勢いな罵倒合戦になっていたことがあった。プロンプト次第とはいえ、AIが書いた創造物も堂々巡りループにはまったりするのだろうか。AとGはニュアンスが違ってて、ちょっと前ならGのとあるプランのほうがAよりファジー感があって面白いかもしれないと妄想が膨らんだ時期もあったのだが、そういえば昔あるDJから「テクノミュージックってバグでいいのできたってことも結構あったよね」と言われたのを思い出した。 作文よりも、校閲機能を充実させてほしいところだが、そもそもAIはタイプミスなどしないのが前提だとはいえ、同音異義語の間違いはよくある上に、以前も書いたはずだが、さも主体があるような語り口である。AIについての与太はこのへんにして本題にはいると……。

 東日本大震災の頃から、進達の養蚕について調べている。
 祖父は昔相場を張っていたらしい。家中赤紙だろうがなんだろうが、火鉢にキセルをポン、などとしていたが、明治生まれの祖父の時代に「相場を張る」というのは、先物はもちろん、今でいうファンドかプロ投資家みたいなことをしていたのだろう。死ぬ間際まで短波ラジオを聞きながら折れ線グラフを書いていた祖父が、あろうことか、「相場にだけは手を出すな」と言い残して他界したのは、僕がまだ幼い頃だった。
 祖父が住んでいたのは、盆地の中の盆地のような小さな町で、小説の舞台にもしたことがある。母が生前よく話していたが、町でいちばん最初に電話線を引いた祖父は、電報がはやく着くようにと、おまじないをかけては、電話線に紐でくくった電報ぶら下げていたらしい。
 はやく着いたところで相場はすでに決まっているという皮肉や冗談だったとばかりとも思えない。アルゴ時代になってからでも追証はもちろん、現物でも売り買いできない時が多々あるのは言うまでもない。短波ラジオで折れ線グラフを書いていた祖父がネット証券時代にもし生きていたら卒倒しているはずだが、まだガキンチョだった僕と碁盤を挟んだ祖父とのやりとりを思い出す。

「置いてみろ」と祖父。
「……」(だまって置いてみる」
「(すかさず)誰の玉だ?」
「……僕の? じいちゃんのは?」
(じいちゃん置かずに、もう勝負あったとばかりに、おしまいのそぶり)
「茶橋建ってたか?」
「見てきます」
(汗だくでお墓に行って茶碗のぞいてみるが建ってたためしがない)
「建ってなかったよ」
(じいちゃん、またキセルでポン)

 などとやっていた祖父が、何を教えたかったのか、今になって少しはわかるような気がする。祖父の相場と僕の相場は違うどころか、戦前戦後を経験した祖父は、株や国債が紙くずになるのを目の当たりにしていたはずだ。畳の上で家族に看取られた祖父には相場以外の実業があったのだが、進達は、信州、葛城、青梅、伊勢崎などと並び、江戸の頃から養蚕、とりわけ蚕種で知られた土地で、その末裔は祖父だけではない。信達騒動があった頃にはまだ首謀者と目されていた菅野八郎も、遠島された八丈島で養蚕を広めている。
 養蚕といってもその仕事は、多岐にわたる。種は、行商と「出来・不出来」による翌年払いが多かったが、西陣や江戸への登せ糸では、デリバティブが発達した現代とくらべてもかなり複雑な取引が行われていた。真綿、織り、水田、桑……と数えあげたらきりがないが、同時並行で進めることを可能にしたのは、家伝の日記や秘書が書かれたからだ。そして何よりも、養蚕家は雅号を持つ俳人でもあったのだ。

 



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