「SILK to HAIKU」 の信達的展開
ひらりととびあがって鳥の目線で、山の頂から信達いちえんを俯瞰すれば、桑折、川俣、柳川に代官所が置かれて、山城は数えきれないほど見える。
天領や預かり支配など、めまぐるしく支配者が変わり、指揮系統も複雑で多岐にわたっている。
領主変遷だけでも書ききれないほどややこしいのだが、近年記された資料のひとつとして、 「どうほう地域総合研究所」発行の「進達の歴史シリーズ」をあげておく。 進達は、伊達家や信夫佐藤家をめぐる政治の舞台であったと同時に、「街道」が交わる「蝦夷の玄関口」であり、「養蚕」と「一揆」という信達特有の事情があったことがうかがえる。
http://fkeizai.in.arena.ne.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/06/1907sintatunorekisi%E2%85%A2.pdf
福島県は東北の入り口だが「どっちつかず」の上に「広すぎる」というのは子供の頃から思っていた。
いつだったか、福島市内の電車通りに面した「福島屋」という旅館の若旦那と話したことがある。「お客さんに、白虎隊について尋ねられても、会津のことで実感が沸かない」と言われて頷いた。
相馬の海には子供の頃から海水浴に通っていた。スキーといえば栗子(現在はすでに閉鎖)か米沢だった。高校の頃には自転車をこいで仙台のライブハウスまで行ったことがある。新幹線ができてしばらくは上野が東京の玄関口だった。会津やいわきよりも、仙台、米沢、上野のほうが感覚的には「近い」のだ。
寺西封元が名代官だったのかどうかについては、最後のほうで少し触れられているのだが、「寛政の改革」ならぬ「寛政の村替」という時代背景があったことを付け加えておきたい。『保原町史』には……
土井刈谷藩で一揆
分領村替
板倉氏が三河へ
刈谷藩財政難(小国)
農民が「訴状」
老中が寺西代官に「質問状」
文化14年に「答弁書」
桑折代官に島田帯刀(幕領)
等記録があるのだが、伊達市小国は、後に「農協発祥の地」となったところである。
福島市に県庁があるのも、日銀(以前はあの建物のまわりだけ、駐禁ナシだったけど、今はどうなんだろう?)があるのも、養蚕を抜きに語ることができないし、一揆や飢饉は、農協の創設(伊達市小国)や、進達特有の自由民権運動へとつながっている。
江戸時代には、街道の整備と助郷、逃散があったのを、明細帳や官報という当時の「出版物」によって知る事ができるようになった。京都への登為糸の取引や、蚕種の行商、真綿、織についてもしかりなのだが(詳細は後述する)、特筆すべきは、俳句のみならず、羽黒修験、禅宗、熊坂家の儒学といった広範囲で活発な在村文化が育まれ、日本のみならず海外までもネットワークを持つ独特の「風雅経済圏」を形成していたことだ。
「HAIKU to SILK」の「信達的展開」である。