「病臥録」 痛み止めの事 

 呼吸をするたびに、乾燥した咽から食道にかけて、痛い。
 この、痛い、というのは、なかなか他者に伝えにくい「自覚症状」である。今日も、深夜二時に痛さで目が覚めてから、うがいをして、水を飲み、乾燥機の湿度が50以上あるのを確かめながら、大火災に見舞われているL.Aにいる友人や、三十年前の阪神淡路大震災の現場を訪ねて原稿を書いた時のことや、津波に襲われてからはじめて帰郷した時のことを思い出している。ますます寝付けなくなって、寝ぼけた頭で布団ではなく机に座ってみると、「痛いということ」、と題されたかなり長い文章が書いてあった。

 一年半版前の入院中に書いた原稿を読み返そうとして、いつものように、とある人のことを思い出している。同じ病院の同じフロアに、僕よりも前から入院していた、いわば「先輩」にあたる方だった。名前は知るよしもない。今時の病院というのは、病室の入口に小さな液晶画面があって、入院患者には、名前がわからないようになっている。
 放射線治療の副作用で口内炎ができて痛みがひどくなってから、今日と同じように夜中に目を覚ましては、ナースセンターに痛み止めをもらいに行っていた。一錠ずつしか出さないオピオイド系といっても、モルヒネほど強い薬ではない。
 治療というのは、きつい自覚症状が、徐々に和らいでいくのが普通なのかもしれないが、こと咽頭がんなどの放射線治療に限って言えば真逆だ。最初の一週間ぐらいは、患者というより、お客さんのようなものである。
 ある友人から「三ヶ月弱も入院だって? このクソ暑いさなかに、良かったね。病院って楽なところじゃんか」と言われたが、その通りだ。三食昼寝つきとあらば、物書きにとって、これほどいい環境はない。実際に、入院してから毎日かなりの原稿を書いていたが、それも、放射線治療の副作用が出るまでのことだった。
 放射線治療をはじめて一週間もたつと、食事の前に、痛み止め入りのうがい薬を数分間口に含んでからじゃないと、痛くて食事が出来なくなってくるのだが、それも過ぎると、痛み止め入りのうがい薬ぐらいでは、食事ができないどころか、水を飲んでも激痛に見舞われるようになってくる。味はもとよりわからない。口内炎ばかりか、不意打ちをくらったように耳鳴りに襲われる。耳鳴りの周波数も増えていく。
 治療が進めば進むほど、ボディーブローのように心身がきつくなってくるのが、咽頭がんの放射線治療なのだ。

 夜中に目を覚まして薬をもらいに行く度に、ほぼ毎回のように、僕はその先輩と出会っていた。明かりが落ちた共用スペースの机に座り、窓の外を眺めているので、視線をたどってみるが、とりたてて目につくものはない。
 テーブルに視線を戻すと、その先輩は、スマホの画面をのぞき込むようにして、しばらくじっと凝視していた。それから、おもむろに右手の人差し指をスマホの画面にあてがうと、ひと文字、また、ひと文字、といった具合に、注意深く言葉を選びながら、文章をしたためはじめた。すぐ近くの座席に座って書いていたのが、今手元にある原稿用紙の一部である。
 いつだったか、その先輩が、教えてくれた事があった。
「うがい薬で薄めていない痛み止めの原液があるんだけど、頼めば瓶ごと出してくれるよ」
 こんなに痛いのに、どうして頼まないと瓶ごと出してくれないのかと思っていると、説明するようにつけ加えてくれた。
「お医者さんにも、看護婦さんにも、痛いのは、わからないよ。同じ治療を受けたことはないんだから」
 言われてみればあたりまえの話なのだが、確かに頼まなければ、すぐには出してもらえなかったかもしれない薬だった。
 おかげで僕は、瓶に入ったキシロカインという名前の、水飴を柔らかくしたような透明の痛み止めをスプーンですくい、それこそ蜂蜜でもなめるように、口の中にたっぷり塗って麻痺させてから、なんとか食事ができるようになった。それでも涙を流しながら食べていたのだが、ICU後の嚥絶にくらべれば、麻酔だろうが痛み止めだろうが、食べたり飲んだりできていた時点で全然マシだったのだ。
 ある晩、真夜中に痛み止めをもらいに行くと、その先輩は、手書きの下書きを見ながら、今僕がこうして原稿用紙を横目にキーボードで原稿を書いているようにスマホの画面と格闘していた。僕は前々から気になっていたことを尋ねてみた。
「ところで、毎晩、何を書いているんですか?」
「孫にメールを書いてるんだよ」
 そう応えると、またスマホの画面をじっと凝視しながら、注意深く慎重な手つきで、ひと文字、また、ひと文字、と言葉をピンセットでつまみあげるようにしながら、メールを書きめるのだった。
 その独特のたたずまいを眺めていると、ふと顔をあげて言った。
「俺が長く入院すればするほど孫にも保険が入るからね」
 よくよく聞いてみれば、入院前に荷物の整理も終活もあらかた終えてきたという。死を覚悟して終活を終えて入院し、真夜中孫にあててメールを書いていた先輩に、僕は痛み止めについて教えてもらっていたのだ。
 いつだったか、あの明かりも消えた部屋の同じ机に座っていると、あの独特のたたずまいですまほに言葉をしたためていた先輩が立ちあがった。自分の病室に部屋にひきあげる前に、言葉少なに励まされた。
「書くの、がんばってね」
 僕が原稿用紙に書いているのも先刻承知だったのだ。先に退院したその先輩に、僕は結局、礼のひとつも言えぬままだった。

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