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老子 第7章 自分という存在

老子の教えから、今、私の見ているこの世界のことを捉え直していこうと思います。

本日は第7章🌟
自分という存在について書いてあります。

天は永遠であり、地は久遠である。
天と地が永久であるわけは、自らを永久であろうとしないからである。故に、永久である。
これをもって聖人は、自らの存在を後にすることで、かえって人の前に立ち、自分の存在を取り去ることで、かえって自分を存在させる。
自分を持たない故に、自分となることが出来るのだ。

「自分と自分」この部分は「自我と真我」に変換できそうです。

自我を持たない故に、真我となることが出来るのだ。

自我とは、他と区別された意識状態のこと。
性別、職業、性格、気質、好き嫌いとかもここに入ってきます。「私ってこういう人間なんです。」って説明できるものですね。

真我というのは、そういった個の意識を優越した純粋な意識状態のこと

そもそも、純粋な意識状態って何か。ってところなんですが、瞑想とかで聞くことが多いかもしれません。
シーンとした真空状態になったり、あぁ私たちは皆ひとつだったのかと悟ったような、あの状態のことを指すと思います。そこには、区別とか分離の意識はなく平安や平和が広がっている。


老子でいう「道/タオ」のあるところ。☯️

無為自然も、この純粋な状態のことですよね。
比較で成り立つ葛藤のある自分ではなく、純粋なるものがただここに存在している。



イエス・キリストは「神の国」「内なる平安」と表現していたかな✝️



長くなりますが、自我を無くしなさい!みたいに聞こえてしまいそうなものなのですが、決してそれが言いたいわけではないのです。。。

きっと、第1章の原因と結果と同じはたらきです。
自我があるから、真我がわかる
真我があるから、自我で表現できる

「あの人と私は違う存在だ」
「私は誰からも愛されない」
「私は神聖な人間ではない。こんなこともあんなこともしてしまった。」

自分と何かを区別してしまった思い込み。

私にはたくさんの思い込みがあります。素直に認めます。。
だから、学びたいと思ったのです📚

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