カミュ『異邦人』
「きょう、ママンが死んだ。」
の冒頭文であまりにも有名なこの作品。読んでみると、この文章のみから受ける印象とはまったく違った、期せずして殺人者になってしまった男の話であることに驚きます。いやむしろ、世の中の不条理の犠牲になった男と言った方が良いのかもしれません。
主人公ムルソーは、亡くなった母親の年齢も答えられないし、葬式の翌日に女性と関係を結ぶなど、一見、虚無的とも言えるような無関心さで存在するのですが、読み進めて行くにつれて、本当に虚無と形容して良いのだろうか……と疑問がわいてきます。
もちろん、友人の女出入りに関係して、殺人を犯してしまいながらも、何の自己弁護をすることもなく、動機を「太陽のせい」だとしか答えずに、結果的に裁判で死刑を宣告されてしまうムルソーは、群衆をいらつかせる何かをはらむ無気力な人物のようにも見えます。
しかし、結末で、自らの処刑の日には見物人たちが憎悪の叫びを上げながら自分を迎えることを望むムルソーに至る時、真実を見つめることなくご都合主義で判決を出していく世の中の人々とは違った、達観した人物として描かれているのではないか、とさえ感じられてきました。むしろ、世間の常識という正義でもって人を裁き、結果的に不条理な判決を生み出してしまう一般大衆の方が、よほど危ういのではないかと。
世の中の当たり前に対して「異邦人」でしかいられないムルソー。異端者としてあるものが、葬られるしかない現実を示すため、そして、そんな異端者を盲目的に罰しようとする愚かな一般大衆を暴くために、彼は存在しているのかもしれません。