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藤沢周『武曲』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2020.12.06 Sunday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

2017年に綾野剛✖村上虹郎✖熊切和嘉監督で映画化された『武曲 MUKOKU』の原作本です。映画では、生きる気力を失った凄腕剣士矢田部研吾と、天性の剣の才能を持つ少年羽田融の決闘シーンがメインに据えられていきますが、原作本では、羽田融のラップのリリックをはじめとした言葉への拘りが詳細に描かれていくため、剣道の用語も禅問答のような印象で訴えかけてきます。結果、映画以上に哲学的要素が強くなり、一つ一つの言葉への立ち止まり方を興味深く感じることとなり、映画とは別物として読みました。

私自身、これまで剣道と縁なく過ごしてきたこともあり、剣道で打たれるということが、イコール「死ぬ」という意味であるという考え方にまず目からウロコでした。剣で切られたら死ぬ……のは当たり前ではあるのですが、剣道がそんな思いで打ち合う武道だったことを、改めて認識しました。そして、その視点で読んでいくと、読者である私までもが彼らの剣道を通して、生死の極限状況に置かれているような気がしてきて、ずっと気が張り詰めたまま読み続けていたような気がします。しかし、(それ故にか!?)最終的に主人公たちが到達した静けさの境地は心地よく、読者である私の緊迫感までもが昇華されていくような気がしました。

タイトルである「武曲」(むこく)とは、北斗七星の中の二連星で、ぶつかりもせず離れもせず存在しながらも、地球からの距離が遠いため肉眼では一つに見える星なのだそうです。一見、対照的に思われる矢田部研吾と羽田融ですが、最後の立ち会いで見せる二人の「間合い」こそがまさに「武曲」だなと感じました。

世界の隅々にまで心を澄ます。蟬の声も、葉群のざわめきも、道場に入ってくる風も、全部自分だ。そして、俺は自由なほど透明になる。

森羅万象と自分との繋がりが、「生かされ」「許され」ていることが、剣道を通して描かれた小説でした。