34歳、【いい人】でいることを辞めました。
学生時代に、クラスや部活の中によく先生から怒られる子っていなかったですか?皆と一緒のことをしてるんだけどなんだかその子だけドジが目立ったり、怒りやすい雰囲気を纏っていたりする子。
まさにそれ、私でした。
小学生の頃はそんなこともなく伸び伸びと天真爛漫に育っていたのですが中学生に上がった途端、急に怒られるようになったんです。
部活でも1番ビンタを受けた自信があるし、
職業訓練に行った帰り、コンビニに行ってはいけないと言われていたのを無視して、同じ4人グループの私以外の3人がコンビニに行った時なんかもコンビニに入っていない私が1番怒られました。(そもそもそんなグループにいるなという愛のお叱りでしたが)
大人になり仕事の講習で接客を学びに行った際も50人近くいる中でいきなり講習の先生が私を指差して、
『あなた、聞く気がないなら出ていってくれる?』
と言ってきたり。(この時も、真面目に普通に聞いてました)
中でも極めつけは、占い師の方に
『あなたの聞く態度がなってないから私の第6感が開かないじゃない!!』っていきなり怒鳴られたりして。
さすがにこの時は、私占い師にも怒られるのか!?と驚きました。笑
そんなこと言ってもちゃんと聞いてなかったんでしょ?って声が聞こえてきそうですが、携帯を触ってるとか、寝てるとか、横柄な態度をしているとかヘラヘラしてるとかそんなこと本当に一切していないんですよ。
皆と同じように話を聞いてるつもりなんです。
私なりに。。
そんなことが中学生の頃から数え切れないほど続いていたので『私って人を不快にさせる何かがあるんだな』
って思いが芽生えて、学生時代からそのうち人と話すのがだんだん苦手になっていきました。
自分を守る為に鎧をつける
中学生の頃から大人に怒られやすかった私は次第にこれ以上怒りのエネルギーを貰わない為に『いい子』という鎧をつけ始めたんです。
その頃の私は思春期というのもあり、
【大人からよく怒られる=ダメな子】という意識があったのだと思います。なのでいい子という鎧を纏うことで認めてもらいたかったのです。
波風を立てないように、いつも周りに合わせて目立たないように。たまに大人の理不尽な怒りに対して少し心がモヤっとすることがあっても、私が黙っていれば収まる事だからと我慢、我慢の日々。
そんな日々も習慣になればそれが当たり前になってくるもので、「いい子」を続けているという自覚もなくなっていき、次第に成長するにつれていい子からいい人を演じるようになっていったのでした。
通用しない【いい人な私】
でもそんな私が強制的に変わらざるを得なくなったのが、オーストラリアに住み始めてからで。
英語もろくに話せない私が日本の時のままの"いい人"を続けて周りに合わせていると
「あなたは自分の意見を持っていないの?」
と不思議がられたり、
「自分をちゃんと大事にした方がいいよ」
と心配されたり、しまいには自分の意見を言わないことで損することが目に見えてあるんです。
海外の方って嫌なことは嫌ってはっきり言うし、逆にこちらがオロオロしていると感情をそのまま顔に出してきます。(言い方は悪いですがナメられます)笑
お店とか、普段の付き合いの中でもちゃんとハッキリ自分の意見を言わないと「何?yesなの?noなの?周りに合わせてないでハッキリして」的な感じで。決して悪い感じではないんです、良い意味で皆オープンでそのままなんです。
遊ぶ約束なんかしていても、当日乗り気じゃなかったらやっぱり今日行くの辞めるとか普通にあったり、でもそこに対して皆陰口を言ったりとかは全然なくて、あぁ、あの子はそういう子だからね。って1人1人の考えとか価値観を大事にしていて。
これが最初は慣れなくて衝撃でした。周りの空気を読んで自分を出さずに生きてきたのに、全く真逆で、みんながみんなオープンで包み隠さずに個性が全開でそれを私にも求められるんです。この当時は毎日が戸惑いでした。
日本には、空気を読むっていう文化があって、直接何かを言わなくても、分かってもらえたり、逆に口に出さなくてもわかってね?的な場面が度々あるじゃないですか。でもこれ、海外では全然通用しなくて。
ちゃんとNOと言える人はあの人は自分を持っている人だよねって評価されるような世界なんです。
そんな環境に6年いるうちに私は海外の人との間の中では嫌なことは嫌だと言える自分に成長していったのでした。
いい人というのは怒らない人
話は変わりますが先日、日本の「いちばん好きな花」というドラマを見ていたんです。普段あまり日本のドラマは見ない方なのですが、このドラマはふと見てみたくなって。でもこれが見始めたらとても深いドラマで色々と考えさせられるドラマでした。
そのドラマの中で多部未華子ちゃんが
「いい人というのは怒らない人ってことなんだよね〜」
と言ったフレーズがなんだかグッと刺さって。「確かに」と納得したんです。
思えば34年間怒るという行為を家族や彼氏以外にしたことがなくて。
それはきっと中学生時代からの怒られ癖で、自分の中に
【元々嫌われやすいのに意見を言って人からさらに嫌われたくない】という恐怖心みたいなしこりみたいなものがあって、そこから自分の感情を出せなくなっていたんだと思います。
でもそれと同時に気づいたこともあって、
34年間、自分の心の声を無視し続けていたということ。
「なんだかモヤっとする」
「それは違うんじゃないかな」「私はこうしたいな」….
そういった心の声を押し殺して、周りに合わせることで嫌われないように必死だったんです。いわば完全他人軸で生きてきたんですよね。
でもそんな臆病な私の中でも1つ、信条みたいなものがありまして。
「人にものを伝える時は感情は抜きにして伝えるべき」ということです。
たくさん怒られてきたからこそ、その人が怒っているときは【怒っている】という感情だけが伝わってきて本当にその人が何が言いたいのか分からりづらかったんです。怒りのエネルギーだけビシビシ感じるというか….
だから私は『怒り』という感情を使わずに自分の意見を言える自分になる!という目標を34歳になった日に立てたのでした。
自分軸の私になると離れていく人
そう決めた時にちゃんと自分の意見を言う機会をくれるのがこの世の不思議なところで。以前から仲が良かった関係の人との間にも
「あれ?なんだかモヤっとするな」というような事が度々起こってくるのです。今までの私だったら、そんなことがあっても関係を崩すのが嫌だったり、嫌われたくない思いが上回って”絶対”に自分の意見は言わないんです。
でも34歳になった日に
『そんな自分はやめてもっと自分を大切にして自分軸で生きよう』
と決めたので初めて自分の意見を言ってみることにしました。
心の内を全て明かすことによってオープンな関係になれて、家族のような深い関係に発展していくのではないかという淡い期待のようなものもあったのだと思います。でも結果的に自分の意見を言い始めた後、何人かは連絡が途絶えたり、陰口を言われたりして嫌われてしまいました。笑
最初は落ち込み、やっぱり自分の意見なんて言わなければ良かった。と後悔する日々。(勇気を出した後に思ったような結果じゃない時ってかなり落ち込みますよね。。)でもしばらくして、ふと分かったことがあって。
自分の意見を言って離れていく人というのは結局
【自分の意見がなくその人に合わせてくれる人】
を求めていて、逆に私はというと
【自分の意見をしっかり持っている人】に憧れ、
自らその人の意見に合わせにいくというスタイルを取っていただけ。ということだったのです。だからこそ成り立つ関係だったのだと。
みんな誰しもそれぞれの正義がある
自分の心の声を無視することで成り立つ関係より
お互いにオープンになって相手も自分のことを大事にしている人と新たに関係を築いていきたいなと思うのです。
「あなたはそういう意見なのね、でも私はこういう意見だからうまく組み合わせていこう。」的な感じで。
このエゴがぶつかり合わない世界ってすごく平和だと思うんです。物事って実はすごくシンプルでいいのではないのかと。
そう考え始めて、私の中で皆に好かれるような"いい人"になる必要がなくなって。むしろありのままの自分でいられないなら1人になることも悪くないなってどこか吹っ切れることができたんです。
ものすごく捻くれているのかもしれないのですが、そもそも【怒り】という感情はその人が”正しい”と思っている価値観や思考が相手と違うことによって起こる摩擦からくると思うのです。
いわば価値観(エゴ)の強い主張だと。
例えば喧嘩をしたカップルがいて、まず初めに彼女の話を聞いてみると、それは彼が悪いね。と言いたくなるような内容なわけです。でもその後に彼にも話を聞いてみると、あれだけ悪いと思っていた彼の言い分もなんだか分かる。というような経験ないですか?
これは私たちはそれぞれ育ってきた環境も見てきた景色も違くて、
その過程で築き上げられた”価値観”というものが1人1人にあるからこそ、1つの起こった出来事を別々の視点から見ていると思うのです。
その価値観はその人にとっての「正しい」や「正義」というもので構成されていて。だから喧嘩の時はその人が持っている”これが正しい正義なんだ”の議論の場のような感じがするのです。
ではここで、そのどちらかの”正しい正義”が間違っているのかというとそうでもないと思っていて。だってその人が人生で体験してきた中で築き上げた”正しい”ですから、それは”正しい”で良いのです。ただ見ている視点が違うだけで。
どちらも正しいはずなのに自分の価値観を相手が理解してくれなかったり、認めてくれなかったりすると自分自身を否定されたような悲しい感情になってくる。そこから【怒り】という感情に変化して、相手に分かってもらう欲求が浮かび上がってくる。または自己防衛から怒りを使ったりする。このことが物事を複雑にしているんですよね。ちょっと分かりづらいですかね。
言いたかったことをまとめると、
私たちにはそれぞれ価値観があってそれは人生の中で構築されてきた正義であって。
それを打ち消して相手に合わせて【いい人】を装っても、
結局はその【いい人】を辞めた途端にあなたの周りにいた人は数人離れて行ってしまう。
それならば【そのままの自分】を貫いてお互いに共感し合えたり、
価値観を尊敬し合えたりする関係を新たに作ること。もし1人になったとしても周りに気を遣うストレスよりかは気楽に過ごせるということ。
34歳で【いい人】を辞めた私から離れていく人もいましたが、
私たちの人生には度々こういった人生の断捨離が起こるものです。
その断捨離があった後にはちゃんと新しい出会いというものもあるわけで
やっぱり人生は自分を反映している鏡だと痛感します。
誰でも自分の意見を言って嫌われるの、怖いですよね。
何も言わずその場をなんとなく収める方が楽ですよね。
でも、恐怖とワクワクって隣合わせにあるんですよ。
恐怖を乗り越えたらすぐにその恐怖がワクワクに変わるんです。
バンジージャンプのように。
自分をもっと大事にすることで自分が楽に生きられる生活が必ず開けてきます。私は気づくのに34年もかかってしまいましたが、いい人を辞めた途端格段に生きやすくなりました。それはまるで水を得た魚のようです笑
1人1人が価値観を尊重している日本って素敵で無敵だと思うんです。
出る杭は打たれるという言葉がありますが、
皆が出ればいいじゃないですか笑
出る杭に皆がなったら横一列平行になって平和になるんじゃないかと思うのです。
今回も最後まで読んでくださって有難うございます🕊️