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経験を共有するということ

先日、修士課程に在籍する学生さんのインタビューを受けました。
インタビューは過去にも何回か受けているのですが、何かに問題意識を持っていて、それについて探求したいと考えている人からのインタビューは、とてもワクワクします。
なぜなら、相手と話をしているうちに、自分の中の何かが非常に活性化するからです。
今まで漠然と抱いていた「何か」が、相手と呼応して、意識化され、さらに言語化されるのです。
こんなワクワクする経験はありません。
ということで、私は、インタビューをしたいという申し込みがあったら、積極的に受けるようにしています。

今回は、インタビューを受けながら、「活性化」したテーマについて、ここで記録しておこうと思います。と言っても、まだ考えがまとまらないため、自分のためのメモになりそうです。
(日々の業務に忙殺され、なかなか自分の感じたこと、考えたことを言語化して記録するということができていないため、ここでの発信は、私自身にとって、貴重な記録になっています)

経験を共有するとは?

先日、インタビューを受け、自分の中で「はっ」と思い当たったのが、「経験を共有する」ことの意義です。

当校は、周りを山に囲まれ、店もなく民家もまばらな場所にあります。
一日中、全く外出することなく学校内だけで過ごすこともできます。
一歩間違えば、社会と断絶し、孤立してもおかしくありません。
しかし、その分、ここで生活する者同士の関係は深くなります。

朝起きて、朝ごはんを食べる。
授業を受ける。お昼ごはんを食べる。アルバイトをする。晩ごはんを食べる。寝る。
学校の中に寮も職場もありますから、ここまでの一連の行動を学生たちは、一緒に行います。

それだけではありません。
土日のイベントやアクティビティまで、ほぼ、一緒に行動しています。
強制しているわけではないので、学生によっては、週末、旅行に出かけたり、一人で遊びに行ったり、部屋の中でずっとゲームをしたりと、思い思いに過ごしているようです。
そうであったとしても、家族でもない限り、こんなに他の人とべったりと濃密に、時間をともにするというのは、珍しいことではないかと思います。
考えようによっては、異常な環境とも言えるのではないかと思います。

ただ、学生たちの様子を見たり、聞いたりしている限りでは、ここでの環境を苦痛に感じていることはなさそうです。
むしろ、非常に豊かな経験を育んでいるように感じるのです。
なぜだろう?

地域との関わり?

私は、ここに「地域との関わり」が大きく関係しているのではないかと考えました。
この地で日本語学校を開校することが決まったとき、地域の人からは、かなり反対がありました。かなりというより、否定的な意見が大半を占めていたような印象です。
そのようなこともあって、開校するためには、地域に学校を開くことが必至であると感じていました。
そこで、地域の人に理解してもらうことを最優先課題とし、学校の情報を積極的に発信してきました。
開校前には、連絡協議会を何回も開き、地域の方々の疑問や不安に答えてきました。
開校直前には、校舎内覧会を設け、学校の中を見てもらうこともしました。
開校後は、学生と交流する場を設け、直に学生たちと接する機会を作りました。
こんなことの積み重ねで、地域の人から、ようやく理解を得られるようになりました。

それどころか、授業で成果発表の場があれば、地域の人が来校し、積極的に意見をくださいます。
また、地域のお祭りやイベントに招待してくださったり、トレッキングやカヌー体験など、この土地ならではの体験の機会を与えてくれています。
レストランのオーナーさんが学生を招待してごちそうしてくださったこともあります。
地域のママさんバレーの練習に参加している学生もいます。
最近は、学校側でもイベントを企画し、地域の方を招待することもしています。
町の小学校と、国際理解教育やプログラミング教育のクラスを設けることもできました。

こんな感じで、地域の方々との関係がどんどん広がり、学生たちは(私も!)すっかり地域のメンバーの一人になっています。
そして、これらの体験を大方の学生が共有しているのです。
教室の中で、また、学校の庭でBBQをしながら(これもまた当校の恒例行事です)、「あの時は…」「あそこでは…」といった話で盛り上がることができるのです。
だいたい教師も一緒に参加していますから、一緒に話をして大笑いをすることができます。

「経験」と「ことば」の関係とは?

地域の人に理解してもらわなければという気持ちが先行し、このような関係づくりや環境づくりを積極的に行ってきました。また、学校という環境を孤立させてはいけないという気持ちも強く、「学校を開く」ということは意識していました。
しかし、この環境と「ことば」の関係についてはこれまであまり考えてきませんでした。
でも、改めて考えてみると、今まで積み上げてきたこの環境が、実は、「ことば」を育むためには、大きな意味を持つのではないかと思えてきたのです。
教室で話される「ことば」全てがリアルなものであり、その「ことば」には、全て体験が伴っています。しかも、その体験のほとんどが、ほぼ全て学生と共有されているのです。

「エモい」と言えば、エンジニアの○○さんが来て話したことが想起される。
「ひっくり返る」と言えば、カヌーで転覆してびしょ濡れになったあのシーンが想起される。
「迷子」と言ったら、どこかへ出掛ける時、すぐ姿が見えなくなる○○さんのことが想起される。

都内の日本語学校で働いている時、このような感覚はありませんでした。
学生が話すことを根掘り葉掘り聞き、それでもよくわからなくて、「こういうことかな」と想像しながら、言葉を補っていました。
しかし、今は、「カヌーで、○○さんがこうなった」だけで、「ひっくり返る」が共有されるのです。
ここでは、共通の経験を伴った「ことば」が共有されているのです。


ここで、様々な疑問が湧いてきます。
経験を伴わない「ことば」とは何なんだろうか?
「ことば」には「経験の共有」が必要なんだろうか?
「ことばを身につける」とは何を意味するのか?
「ことば」を学ぶ意味とはなんだろうか?

今はまだ、はっきり答えが出せていませんが、この豊かな環境の中で、さらに考え続けたいと思います。

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!