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消費と生産

 ゲームや動画を見ることは消費ですが、文章を書いたり絵を描いたりすることは生産だと思います。それではゲームを追求することと文章を書くことを追求することは何が違うのでしょうか。

 私は何も生みだせなくなった時は消費に振れます。たとえばこの連休はドラマを見てゲームをしてマッサージにいきました。とことん消費に振れていました。中でもゲームを多くの時間していたのですが、これが私の人生の縮図のような形になっていました。

 ゲームでは先のことを知りたくないと思うのです。たとえばゲームを進めるごとに新しい敵が出てくるのですが、その敵の情報をあらかじめ調べたくないと思うのです。どのような敵にも弱点や倒し方があります。それを抑えないとなかなか倒すことが難しい敵が現れたりするのですが、それを予め知りたくないのです。

 ゲームでオフラインの場合、つまり自分とゲームという関係で世界が成り立っている場合、先のことを知らなくても悩むことはありません。進めれば進めるほど気づきがあります。何か検討をつけてやってみると、それが当たったり外れたりします。どちらでも良いのですが予測しながら、瞬時にフィードバックしながらゲームを進めると、自分の中でもやり方が確立されて行きます。自然と勝ちパターンが作られていきます。ゲームでオフラインの場合は試行錯誤の中に気づきがあり、それが満たされることに繋がることがあります。

 ゲームでオンラインの場合、つまり自分とゲームという関係の他に第3者が介入する形で世界が成り立っている場合、世界の常識を知らないと勝てなくなります。オフラインの時のように行き当たりばったりでやっていると、どこかで頭打ちがきます。おそらくオリンピックと同じような世界ではないでしょうか。初めは自分で楽しんでいる中で実力が伸びていたところが、世界の人と競うようになるとそれに合わせて自分も強くなろうとします。周りが強ければ強いほど自分も成長します。毎日10時間の練習よりも1回の試合に出た方が実力が伸びる世界がやってきます。ゲームでオンラインの場合は自分で試行錯誤してもその世界の成り立ち、つまりはフレームワークを理解することに膨大な時間がかかます。自分でやってみるだけでは試合に勝てず、まずはフレームワークを理解してその上でポイントを抑えることで試合に勝てる、満足する世界があります。ゲームでオンラインの場合、フレームワークを理解した上で挑戦することで気づきがあり、それが満たされることに繋がることがあります。

 フレームワークを理解してからものごとを進めるのは理系の研究職でも同様です。研究職でなくとも全ての仕事に通じるところではあるとは思いますが、世界で戦うためにはただ行き当たりばったりで攻めるのではなく、まずは世界の輪郭を抑えることが必須になります。

 消費の世界にはフレームワークがあります。つまりゲームや動画の世界にはそれを成り立たせる条件があります。ゲームに強い人はフレームワークを理解した上で自分の振る舞いを決めています。つまり私のように先のことを知りたくないと思い、その世界を調べないのではなく、調べた上で自分がどうするのかあり方を決めています。

 生産の世界にもフレームワークがあります。たとえば文章を書く上で、文法は重要です。日本語で言えば「ですます調」と「である調」は書き方が異なります。文章で言うフレームワークを抑えておくとは、はあらかじめボキャブラリを増やしたり言い回し、文章構成を学んでおくことでしょう。

 消費の世界ではフレームワークを抑えることが世界で戦うレベルになる必須条件でしたが、生産の世界でも同様なのでしょうか。私はこれまで「不安な人」と「安心している人」に人を分けてものごとを観察してきました。「不安な人」はフレームワークを知らないことに執着したり、フレームワークを先に抑えなければならないと考えます。「安心している人」はフレームワークを知った上で、自分がどのように振る舞っていくかを決めます。つまり「安心している人」はフレームワークを抑えながらも自由に振る舞うのです。

 世の中には「ビギナーズラック」というものがあります。広辞苑では「賭事などで、初心者が往々にして好結果をおさめること。」とあります。賭け事に限らずとも、始めたてなのになぜかうまくいくのは固定概念がないからです。それを長年やってきたプロよりも初心者が優れている結果を出すことです。「安心している人」が自由にふるまう様子は「ビギナーズラック」の時ににています。すでに知っているのですが、知らないかのように、つまり固定概念なくものごとに当たるのです。

 消費も生産もフレームワーク、言い換えるならば基礎を押さえることは上達する方法の一つではあります。生産の場合は消費に加えて「ビギナーズラック」というものがあります。自由であるからこそ遠くの世界に行けるのです。追求することができるのです。フレームワークを学ぶと固定概念が生まれるので、思考が抑制されて何故か「皆と同じようなもの」を作り出すことがあります。

 ゲームを追求することと文章を書くことを追求することの違いは「フレームワーク」を知った上で「自由に振る舞えるか」どうかではないかと言うことです。ゲームは最初からゲームの世界観を調べてからやると、少し楽しみが減ります。どんな敵が出てくるか、どんな武器が出てくるのかが楽しみだったのに、自分で気づきたかったのに、最初から知ってしまうと既視感が生じます。実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じます。既視感はワクワクを減らすので、脳のアドレナリンを減らすので、最初から調べようとする人が少ないのでしょう。私もその一人です。文章だって同じです。最初から文法などを教えられたら、つまらないこと極まりないです。なんだか学校で習う英語みたいです。コミュニケーションがあってこそ、相手にこちらが意図する言葉が伝わって親しみを表現できるからこそ楽しいのに、それをなしにフレームワークを学んでいくのは作業です。そこには新しいことを知ったという達成感のみ残ります。人とふれあった時のワクワク、楽しみはそこにはありません。

 フレームワークを知ることは地道な作業です。達成感や人と競争してどれだけフレームワークを抑えるのが早いかなどを基準にしないとやってられません。既視感で脳が退屈してしまいます。ただしフレームワークは遥かなる高みに登るためには欠かせないことの一つです。しかしフレームワークを知る、再現できるようになることは手段でしかないため、全てをできるようにする必要はないのです。

 かつての私は多くのできることを増やすことに一生懸命になっていました。学校では勉強して好成績をとり、会社でもできることを増やそうと躍起になっていました。周りの景色を楽しみながら道を歩むのではなく、いかに色々な道を行くか、そして早く頂上に到達するかが、ものごとの追求だと思っていました。フレームワークを増やすことがものごとの追求だと思っていました。

 しかしフレームワークを増やすことは「できることを増やすこと」にしかつながりません。ゲームでできることを増やしても勝てるとは限りません。文章を書く上でもできることを増やしても良い文章になるわけではありません。消費でも生産でも追求するためには「自由に振る舞えるか」が鍵となります。自由に振る舞うためにはフレームワークはボトルネックとなります。固定概念は行動を制限します。消費でも生産でも「追求する」中では「フレームワーク」でその世界の成り立ちを知ると「できること」が増えますが、「フレームワーク」は囚われを生じさせて「自由に振る舞うこと」が難しくなります。消費でも生産でもフレームワークによるメリット、デメリットに悩みながらも、その矛盾を超えていくことが「追求すること」なのではないでしょうか。そのため「不安な人」となって日々の生活に固定概念があり囚われている人よりも「安心している人」となって少しても囚われがないようにすることで、さらに追求していけると思うのです。

 

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