怯えている人
極端な意見を持っている人がいる。それは怯えている人だ。例えば、某ウィルスで見解を持つ人。怯えている人の見解は極端であったりする。新聞は〇〇だ。〇〇に勤めている人がこう言っていた、〇〇のCEOが〇〇の発言をしていたが、メディアで消されていたから〇〇だ、などと話す。
意見を持つことの良し悪しを言っているわけではない。個人があるテーマ、課題、議題について自分なりに考えることは素敵なことだ。ただ、怯えている人は極端な意見を持つという話だ。
極端な意見は身近にどのような影響を及ぼすかと言えば、周囲に似たような人を置くことに繋がる。思考を停止することに繋がる。結果的に周囲から距離を置かれるか、共依存的な関係となることに繋がる。何かトラブルに巻き込まれることに繋がる。リベラルな形にはなりにくい。数値で物事を語れない。同じように何かのテーマに対して白黒つけることが好きな人だ。このような人は安心している人が少しスピリチュアルだなと感じたり、感覚的だなと周囲が思うことに繋がる。
怯えている人は気持ちに左右される。自分の身体を管理できない。例えば何でも全力投球で疲れる。疲れると余裕がなくなる。人に関わると当たる。起こったり理不尽なことを言う。自分の疲れた身体を回復させようと、休もうと、回避的になろうとする。人の立場に立って物事を考えられなくなり、”自分は”、”自分が”と本人の主張ばかりになる。結果テレビを見たり動画を見たりネットを漁ったり、受動的な行動を取るようになる。それは本人の中では無になっている。何も考えない、頭を空っぽにすることを求めている。頭を空っぽにすることが習慣となるが、この方法ではいつまで経っても怯えることを解消することには繋がらない。受動的な行動は一時的に精神のバランスを取ることに繋がるが、怯えることを解消することには繋がらない。
怯える人、理不尽な人、偏見がある人、コミュニケーションができない人がそばにいる場合は、もしくは自分がそれに該当する場合は、まずは余裕を持つことである。その人が不安に感じていることを少しずつ摘み取って行くことである。例えば怯える人はお金に不安を感じている。自分の罪悪感にさいなまれている。自分がそこに存在していいと思えていないことがある。そのような人にはまずは自分の好きなことを見つけるようにアプローチすることだ。
怯えることに好きなことをやってみてと言ってもできない。何を試してみても、人からの評価を気にしたり、何か理想を掲げていてそのギャップを感じてやらない。そもそも意欲的ではない、やる気がない、無気力といった場合もある。そのような場合でも、自分の時間をとる、ひとりの時間をとることを試してみるといい。
怯える人は最初はこれに慣れない。すぐに人と話そうとしたり、テレビを見るなどと言った受動的な行動に戻ったりする。初めはそんなものだ。一人暮らしを初めてソワソワするのと同じように。その状態に初めは慣れない。結局のところ好きなことなんて自分にはないのではないかと感じることに繋がる。諦めることに繋がる。それでもゆっくりとほんの少しでもひとりの時間を持つことである。脳は少しずつ変わる。自分が心地よいと感じるものに気づくときが来る。それにはおそらく長い時間がかかる。それでもひとりの時間を取ることで、自分はこれに癒されている、好きだ、何事にも変えがたい、生きがいであると感じるものに出会う。怯える人ではなくなっている。より満たされるようになる。