受動的にしかなれない時
私はこの2日間、3日間かもしれない。灰になっていた。激しく燃えた後のような灰となり、受動的にしかなれなかった。友達と話せば比較し、アニメを見るが、その面白さを楽しんでいると言うよりは、あと何話で見終わるという達成感でしか動いていなかった。
私には認めたくないことがあるのだ。糸口は自分が惨めな想いをしたくないというところだ。とても高い理想を持っているということだ。
受動的になるきっかけは本の構成や内容を考えていて燃え尽きたところに至る。最初は閃きのまま動けていたのだが、そのうち取り組みは作業になった。作業をしていると脳が飽きてくる。何も考えなくなる。高い熱量、集中、いわゆる没頭している状態は就寝と共に初期化され、何もやる気がなくなった。
私はこういった時、受動的になることに徹するようにしている。しかし、今回はパーソナルトレーニングに行ったり、元々予定していた友達と電話で話したりというイベントを挟んだ。受動的ではあるものの、自発的に動くイベントを挟んだ。
自発的なイベントでは情緒不安定感が出たと思う。パーソナルトレーニングでは自分をよく見せようとした。友達には仕事は変わりないと話た。自分の状態とは異なる自分を出していた。こうして再び朝を迎えた時、私は灰になっていた。ただアニメを見続けた。満足感を得たかった。
受動的な日々を数日送り、再び朝を迎えた。以前の自分はこんな形ではなかったなと失望する。あんなにもやる気が出ていたのに、継続できないとがっかりする。仕事のように感情を消して取り組めばいいのかもしれないと思うが、再び自分を追い込んで結果を得たいわけではないことを知っているため、どうバランスを取ろうか悩む。
この記事を書いている私はいつも通りに戻っている。つまり、自発的な状態に戻れた。それは考えを変えたからだ。表現者は誰しも生活と表現の狭間で悩む。自分と向き合うことで悩む。これこそが私がやってみたかったことだ。今までは取り組むことで解決してきた。しかし、今はなぜだか取り組むこと以外の解決策を知っている。流れに身を任せることだ。
私は受動的な状態は、理想に早く辿り着こうとした不安からの反動だ。2〜3日前の自分は惨めな想いを持っていた。本当は本を書き終わったりしたかった。いつでもエネルギッシュで自発的な自分でありたかった。
しかし、物事にはバランスがある。私は自分だけのバランスの取り方を知らない。そのため、不安になると演じたり人と比較する。人と関わることでバランスを取ろうとする元の自分に戻ったり、比較することで自分はどのあたりにいるのか分析したりしようとする。私は不安ー惨めな想いをしたくないと表現をしようと力み、結果受動的になった。
私はまず立ち止まること必要がある。それは惨めな想いを認めたくない自分から、私は不安を感じていると認める必要がある。そして、そのような不安な自分は不安だからこそ生じる行動、受動的になる行動をすると捉える必要がある。
不安であっても別にいいのだ。それは避け難い困難を生き抜いてきた証だ。なんとかしたいと心から願っている証だ。しかし、安心してほしい。不安に囚われて動いても、また大変な状態となるだけだ。安心している人は自発的に問題を解決しようとするのであるが、私は不安な人だ。無理に安心している人になろうとしなくていい。惨めな想いをするかもしれないといった衝動で動かなくていい。
不安な人の場合は、まずは受動的になってよく休むことだ。ゆっくりからだをごろんと横にする。睡眠を取るのもいい。ただ、その流れに身を任せるのだ。
これがいつまで続くんだろう、自分はこのまま灰のままかもしれないと不安になる時だってあるかもしれない。だけれども、灰のままではない。灰になってもなぜかまた土となり、そこに種がまかれ、花や木を咲かせる時がくる。灰のまま種や花や木を得ようとするから、ゾンビやオバケのような執着の塊となるのだ。ゾンビの状態でどんなに理想を得ようとしても得られる日は来ない。一時的に得られたとしても、それは手からこぼれ落ちる。不安な人の無限ループの中に入ったままである。
受動的な時は灰から土へと変わる準備をしている時だ。空っぽにしてエゴのない意欲が湧いてくる時を待っている時だ。汚れたスポンジから真っ白なスポンジになる時を待っている時だ。不安な状態で無理してやろうとしなくていい。しかし、無理する時もある。そしてやる気が出なくなる。そうしたら休むことだ。その繰り返しをしているうちにいつの日か土へと変わっている。バランスを取れるようになっている。熱中と休息をバランス良く取る安心する人になっている。