猫の妙術
江戸中期に書かれた剣術書を現代の人でも分かりやすく紹介した「猫の妙術」を読んだ。
新釈 猫の妙術
武道哲学が教える「人生の達人」への道
著者:佚斎 樗山
訳•解説:髙橋 有
発行者:藤田 博
発行所:株式会社 草思社
発行月:2020年10月
感想としては、武道も理系の研究を極めた先も変わらないなというところだ。私は理系の研究職を生業にしているが、研究で論理を積み上げた結果を出すいわゆる秀才な人と、論理を飛び越えた成果を出すいわるゆ天才な人を間近で見てきた。秀才に努力すれば誰にでもなれるが、天才はみんなと同じ凡人であったが、あるきっかけで脳の使い方を変えた人がその在り方となっていた。そのきっかけは人それぞれであるが、悩んだ末に出したその人なりの無駄を削ぎ落とした形であった。
猫の妙術では、3匹の猫が登場する。その猫はそれぞれ極めたものがあるが、「あるもの」が足りず、ネズミに負けてしまう。
1匹目は技だ。テクニックを増やすことを極めた形だ。
2匹目は気だ。気迫を強め、相手を圧倒することを極めた形だ。
3匹目は作為だ。あぁしよう、こうしようというエゴ-執着-誘導-こだわりを極めた形だ。
これらの3匹に足りなかったのは本書では「道理」であると解いている。ものごとには移りゆく現実があり、それを認めてこそうまくいく。道理とともに身体は動く。それまでは静かに待つこととある。
理詰めの研究職にもこれは言える。極まったの研究者は目標、理想、こうしようという形を持たない。色々とできることを増やすわけでもなく、研究資金を増やそうと政治的な活動に勤しんで相手を気や勢で圧倒することもない。これをするのは不安な人だ。
極まった研究者は子供のようだ。そのあり方にはエゴがない。その研究分野に対して沢山情報を得たり、考えたりするのだが、最後は閃きによって研究がひとつまとまる形となる。日々そのことに全力で取り組みながらも、必ず休息する。ぼーっとする時間を取る。そういった時に研究の本質とも言えるアイディアが向こうから訪れる。閃くといった形だ。放っておいて物事の道理に身を任せているのである。道理は安心した人ができることだ。
なお、この本で私が1番ささったのは次だ。
どんな分野でもそうですが、最も優れた人の定義の一つとして「経験のない未知の事態に対処できる」ということが挙げられます。これは世の中にいる、何かに優れた人を思い浮かべれば、納得がいくと思います。
では、彼ら彼女らは、なぜそういうことができるのか。それは「道理」が身についているからです。つまり、技の実践を通じて、その奥にある原理原則や現実の本質を見通す心を身につけたために、初めて目にする事態にも、自然と適切な対応ができるのです。
手段は手段にすぎない。作法を増やしても本質に気づかなければずっと現状維持のままだ。
さらに成長したいのならば、新しい世界に行って体験すること。これに尽きると私は思っている。