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3人のレンガ職人

イソップ寓話に三人のレンガ職人という物語がある。この物語はモチベーションを高めるものとして取り扱われることがある。ざっくり書くと次のような形だ。

旅人が3人のレンガ職人に出会い、ここで何をしているのかと尋ねた。
1人目は「何って、見ればわかるだろう。レンガ積みに決まっているだろう」と答えた。
なんでこんなことばかりしているのかと、辛く思っていた。
2人目は「大きな壁を作っているんだ」と答えた。
家族を養っていけて、ありがたいと思っていた。
3人目は「歴史に残る偉大な聖堂を創っているんだ」と答えた。
多くの人の役に立ち、素晴らしいと思っていた。

1番目がなんだかやる気が出ない状態で、2番目が生活のために仕事を仕方なくしており、3番目が自己実現し、イキイキと物事に取り組んでいる。見返りを求めずに、人の役に立とうとする。

資産が十分にある人、自動的に入手できる人を除いて、多くの人は生活のために働き続けているのではないだろうか?つまり、1人目か2人目の立場である。

3人目の形になるために、世の中のあれこれの記事は、これができればいい、こうするといいということを強いメッセージで発信している。発信している人は、それで実際にうまくいっているし、本人もその道を通ってきているから説得力がある。

私も同様にこのテーマに対して一石投じる。3人目になることは誰にでもできる。そして、何か能力を身につけたりしなくていい。ということだ。

私は理系のサラリーマンで、これまで研究開発を行い、世の中にまだない、新しいものを作ってきた。その姿はなれたらいいなと思い描いて実現したもので、その環境は大変恵まれている。人よりも詳しいことがあったり、できることがある。しかし、私は1人目や2人目だった。目の前のことに追われ、責任に押しつぶされそうになり、仕事を辞めれば貯金がなくなっていくことや所属がなくなることに不安を感じて働き続けた。そして身体に不調が出て休職した。何かと大変だった。苦労していると感じた。

そんな私は、何度も3人目になろうとした。自分の仕事は確かに多くの人の生活を豊かにする。ニュースにもなる。陽の当たるポジションだった。捉えようによっては、簡単に3人目と思うことができた。偉大なものを作っているとも思えた。その過程には達成感があった。周囲には認められ、お金も手に入った。しかし、私は周囲に恵まれていようと、自分が世にない新しいものを作っても、達成感を得ようと、満足しなかった。疲れた。やる気がなくなった。弱った。

一方で、同じような環境でイキイキして生活している人がいた。子供のように無邪気で、何事も意欲的に取り組む。研究でも画期的なアイディアを考えついて成果を出す。論理的思考も得意で、物事を体系立てて捉えている。人との関係も良く、好かれ、多くの人が集まる。私はこういった人を統合的な人と呼んでいる。

私は統合的な人の真似をした。しかしなんだかその人のようにはうまくいかない。後手にまわる。追いつかない。なんだか大変である。その人のようにどっしり構えていられない。

私と統合的な人の違いは、囚われがあるかである。しかし、統合的な人にも過去に囚われがあった。しかし、囚われを手放して生活している。満たされている。さて、それではこの囚われとは何であろうか。

囚われとは、思考の偏りである。エゴのことである。不安のことである。こうしなければならない、ああした方がいいという考えである。将来像をイメージして目標を立てることである。目標に対して何かできるようにすることである。過去に対して、肯定的に捉えることである。これがあったからよかったと意味づけすることである。

囚われは誰だってできる。学校に行く中で、社会にかかわる中で、誰だってできる。学校に周囲が行く中で、自分は行かなくてもいいと思える人は少ない。生活のためにはお金を稼ぐ必要があると思う。囚われをなくす人は少ない。一生持ったままである人もたくさんいる。囚われをなくすことはすぐにできるが、それを手放さない。

囚われをなくすためには、ひとりになることである。黙ることである。口を閉じることである。頭を空っぽにすることである。自分を俯瞰することである。勝手な解釈をしないことである。自分は何か大きな中の一つと認識することである。自分はある状態の一つと認識することである。

囚われをなくすと、エゴのない意欲が湧いてくる。これが気になるな、あれをしてみたいな。興味から来る意欲である。誰かに従ってすることでもない。将来が安定しそうだと打算的に取り組むことでもない。これまでこれをやってきてできるからやろうということでもない。やったことがあること、やってみたことがあること、どちらでもいいのであるが、意欲にこたえることである。下手でいい。うまくやろうとしなくていい。それに取り組むことを楽しむのである。子供が走り回るかのように。どうして走り回っているのか尋ねても答えようがないように。

統合的な人は、エゴのない意欲の連続で私と同じ環境にいた。私はエゴのある意識で生活していた。何かできないといけないと思った。こうしなければいけないと思った。何かに沿おうとした。

会社では組織としての向かう方向や今期達成する目標を掲げる。統合的な人は、それらを一つの情報として認識し、自分のエゴのない意欲とかけ合わせて、好きなことをしている。勉強を勉強と思わない。気付いたら勝手にやっている。調べている。情報を集めている。考えている。試行錯誤する。比較しない。毎日楽しくて仕方ない。無理をしない。集中と休息を繰り返す。

囚われをなくすと、何者にでもなれる。より満たされることができる。



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