辛い環境に突っ込む人
自分から大変な道を選ぶ人がいる。その道を通れば自分が憧れているような人になれると思う。そのために色々と準備をする。練習する。つまらないことをする。イバラの道を選ぶ。遠回りする道を選ぶ。今は波に乗がきている、目をかけられているという条件に惹かれて火中に飛び込む。飛んで火にいる夏の虫のような状態である。
何かへの憧れは能力を習得する時、はじめようとする時に足枷となる。せっかく真っ白なキャンバスを持っているのに、それをわざわざ絵を描きにくくしているような形だ。元々はスポンジのように柔軟な形であるのに、スポンジにあらかじめ何かを染み込ませている形だ。もう何か詰まっているので、かたくなっている。得るものも少なくなる。
私は日頃遠回りは近道だと言いている。しかしここではわざわざ遠回りする人がいるね、と主張している。これは同じことを主張しており、不安な人がわざわざ更に不安になる方を選択しているねと言っている。遠回りは近道と主張しているのは、入った道の中で試行錯誤する様が最終的には満たされる形になるということを言っている。選択する時にわざわざ不安を増す方向、困難なことを選択する必要はないということを述べている。別に何か能力を身につけようとして判断しなくていい。物事に取り組まなくていい。自分がやっているだけで楽しくて仕方がないもの、勝手に試行錯誤しているものをすればいいのだ。
世の中にはわざわざ大変なことを”下積み”という名の元、繰り返しさせる文化がある。それはどのような世界でも見受けられる。それが正しい在り方だと信じて疑わない人がいる。
何かできるようになった人、俯瞰している人、一歩引いて物事を捉えている人は、確かにその人のそれまで歩んできた道で経験をしてきた。下積みとしてやらせることをできるようにしてきた。しかし、それを自分ができるようにしなくてもいい。どんなにやっても自分はその人の下位互換にしかならない。その先に道を進んだ人を超えることはない。むしろその下積みを強制させる人はその主従関係にマウントを取っている。それで自分の方が上だと安心している。
最近では、ジェネラリストになるのが良い、自分で考えられる人が良い、変化できる人が良いと言われることがある。その中のひとつに複数のできることを組み合わせて新しい分野を作り出すのが良いという考え方がある。何か追求する時代は終わったのだと。これまでの偉人が十分深掘りしてきたのだと。それでは自分は今何をすればいいのか。それは自分が環境に合わせて変化して新たなものを作るといいという形だ。これまでのことをなぞる必要はない。それが好きならばそれでいい。おそらく勝手に夢中になっていればそれは唯一無二のものになっている。初めは先駆者の知識を得ていたかもしれないが、真似をするところから始まったかもしれないが、いつの間にか自分らしい味が乗っかっている。それは新たな分野になっている。
何か始める時は下手な方がいい。真っ白な方がいい。スポンジの方がいい。何かできるようにならなくていい。何かを目指さなくていい。自分が自然とできることをすればいいのだ。わざわざ何かできるようにしよう、何者かになろうと思って辛い環境に突っ込んでいかなくていい。そこではおそらく惨めな想いをする。なぜかそのことに憧れも何もない人が成功していく。結果を出していく。認められていく。自分はこんなにも熱意があるのにと思うかもしれないが、その想いが消化されることはない。逆に囚われを強くする。憎しみが強くなる。余裕がなくなている。なんだか黒い塊になっている。
黒い塊になっていたとしても大丈夫である。まずは手放すことである。その置かれている環境から離れることである。その環境が努力して到達した、頑張って到達した、積み重ねて到達した、狭き門であったとしても離れることである。自分を真っ白なキャンバスの状態に戻すのだ。柔らかなスポンジの状態に戻すのだ。このためにはアタマとカラダを空っぽにすることが必要だ。
これまで頑張ったことを手放すなんてとんでもないと感じると思う。周囲ももったいないと言うだろう。あなた好きだったじゃない、頑張ってたじゃないと言うだろう。それでも手放すのだ。真っ黒い塊になった時、あなたは熱をおびた状態だ。冷静ではない。真っ白なキャンバスの状態ではない。まっさらなスポンジの状態ではない。
そうして何者でもない、何もない自分になって不安になるだろう。どうやってこれから進んでいけばいいんだと途方に暮れるだろう。いつになったら黒い塊が白い状態になるのだと感じるであろう。そのサインは何かエゴのない意欲が湧くようになったら白い状態だ。これからのことをとやかく考えない、これまでのことを気にせずに物事に取り組む時だ。
エゴのない意欲は些細なことだ。静かな気持ちだ。例えば動物と触れ合っていてなんだか心地よい。お散歩をなんだかしてしまう。心地よくて繰り返すことだ。なんだか夢中になることだ。
私は研究職をしてきた。その姿に憧れて形を叶えた。しかし、黒くなった。辛い環境に自分から突っ込んだ。そのような私は休職した。アタマとカラダを空っぽにしようとしている。白くなり、エゴのない意欲を試している最中だ。そのような私のエゴのない意欲に従って楽しくやっていることは、ツイキャスだ。気ままに配信している。これがどこにつながるかは想像もできないが、その取り組みを楽しんでいる。