愛情とは何か分からなかった
私は愛とは何か分からなかった。断っておくが、私の幼少期は楽しさに溢れており、好きなことができた。何かに熱中して疲れたら休んで。休んだらまた何かで遊んで、また休んでの繰り返しだった。熱中と休息のバランスがとれていた。兄弟との仲がよく、両親も温和で暖かかった。一般には愛情を受けて育ったと思う。しかし、愛情とは何か分からなかった。
愛情を広辞苑で調べて見ると、下記のように説明がある。ますますよく分からない。リケジョである私は、状態や条件を羅列してほしいと考えていた。
①相手に対して向ける愛の気持。深く愛するあたたかな心。「親の―」「―をそそぐ」
②異性を恋い慕う感情。「―を抱く」
自己肯定感を上げるには、愛情を受けることと多くの書籍で紹介されている。しかし、私はなんだか乾いた日々を過ごしていた。
私は30代のリケジョで大学では首席だった。誰もが知っているような会社に入社し、社会的ステータスがある程度得て、金銭的にも不自由なく、充分に休みもあった。周囲の人も温和かつ意欲的で、論理的思考もでき、自分の能力が日々上がるのを実感し、成果を出し、周囲からも認められていた。
しかし、私の心は乾いていた。満たされなかった。どんなに認められようと、どんなにお金があろうと、好きな時間を確保できようと満たされなかった。一つのことに腰を据えて取り組んだり、色々やってみたりもした。試行錯誤した。それでも満たされなかった。こんなに満たされないのはなぜかと調べているうちに、自己肯定感をいう言葉に出会った。Wikipediaでは次のように説明されている。
自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり[1]、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である[2][3][4][5]。
私は、どんな状態になっても、自分は大丈夫と思えていなかった。不安だった。それを解消するためには、愛情を受けること、ありのままでいいと思えることなど説明があった。しかし、愛情とは何か分からなかった。
試行錯誤する中で、気づいたことがある。私は愛情を受けて育ったが、周囲に避けがたい困難があった。学校では何かと比較された。決めつけられた。点数の良し悪しで判断される。運動ができることが良いとされる。何か新しい発想をすればいいとされる。何かしていないといいとされなかったのだ。結果を出さないといけなかったのだ。グタグタとソファーで寝っ転がって休んだり、ぼーっとしていることをいいねとされなかった。つまり、周囲から愛情を受けるためには、何かをしている必要があった。何かに取り組む必要があった。取り組むと結果が出る。その結果のみにフォーカスされがちだった。
何をしていても大丈夫とされることは、正直少ないのではないかと思う。しかし、なぜかペットはそこにいるだけでOKで、気ままに暮らしてていい。個性を尊重される。この子はこういった性格だから、またイタズラしてと受け入れられる。しかし、人ではそうもいかない。何か周囲から求められる。
愛情は自己肯定感を確かに育む手段の一つであると思う。しかし、自己肯定感を育む方法は他にもある。自分は大丈夫だと思える方法はある。安心できる方法はある。それはひとりになることだ。ひとりになってゆっくりと休むことだ。頭も身体も空っぽにすることだ。そうすると意欲が湧いて来る。エゴのない意欲だ。〜するとうまくいくななど考えることがない、やってみたいという興味である。興味のあることをやってみると、上手にできないかもしれないがそれでいい。それがいいのだ。そこでエゴがあると制限される。自由ではない。また不安に駆られる。エゴがない状態でやったことは、個性となる。そして、その個性は知らなかった世界に自分を運ぶ。何者にでもなれる。