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腹落ちの効果

このところ「なんだか不安を感じる」状態でした。夜寝付きが悪くなったり、目の前のことに集中できない日が続きました。事態は悪化してやる気が出なくなったり、なんとなくずっと眠い、カラダが重たく感じるといった日々を過ごしていたかたちです。最後には何だかイライラして身近な人にあたる始末でした。「〇〇取ってきて」や「〇〇食べたい」のような人に要求ばかりして王様のような様子です。自分の欲求が満たされないと不機嫌になるような始末です。

そんな悪態をつく状態から一変して「満たされて冴えている」状態になりました。夜はすんなり寝られて目覚めると朝になっています。何かに取り組み始めると集中して数時間は経っています。フローに入っているような状態です。やる気に満ち溢れていて、目がキラキラしています。もちろん眠気なんてなく、カラダは軽やかです。周りの人には親切にできて思いやりのある言葉をかけることができます。人の話をふんふんと聞いて、終始ご機嫌です。

不安な状態から満たされている状態に変わったキッカケは「自分の状態を認知すること」でした。私の場合はカフェに行って自分の想いを書き散らかしました。カフェに行く前には美容室に行って好みの髪型にしたり、好みの服を購入して、できる限り自分をご機嫌な状態にしました。すっかり上機嫌な私はカフェに入って一息ついたところで「今考えていること」を思うがままに表現していったのです。

カフェに入って書き始めたことは美容室のことでした。見返してみると美容室は「流れがよくないよね」みたいな抽象的な話ができて楽、みたいなことを書いていました。書き終わると次にSNSを徘徊したようで、美容室の話題の後にはSNSについて思うことを表現していました。そうしてまた美容室での雑談の話に戻り、次にサラリーマン時代での想いを綴ってしました。そうした自分の思考の連なりは段々と「甘える人」の話と変わり、最後には「自分が嫉妬したこと」の話となりました。この最後の「自分が嫉妬したこと」が変わったキッカケである「自分の状態を認知すること」となりました。

「自分が嫉妬したこと」には次のように書かれていました。
「(中略)…余裕のある姿になんか良いなと思った」
「(中略)…本当に自分の好きなことをしてて良いんだよ、いるだけで良いんだよ、むしろ居てくれてありがとうって姿に、なんか良いなって思った」
そこには私が何に「良いな」と思ったのかが具体例をもって書かれていました。

そこから次に「なんだか不安を感じる」自分と対比させて嫉妬する状態についての私の考えが書かれていました。
「(中略)…ゆとりある形に嫉妬していたんだけど、私は私じしんで自分の首を絞めてて。それに嫉妬しているという自分を観察することで気づいた」
「(中略)…前に進まないといけない、結果をださないといけない、結果が出なかったらどうしよう、みたいな気持ちが嫉妬する自分を作りあげてた。」
自分の状態を観察して言語化する(認知する)ことをしていたわけです。

人に当たったりと散々な状態であったのに、ここまで精神的に落ち着いて「今」に戻ってこれるとは思ってなかったので、正直自分でも驚きました。効果があったので、こうして書き残すに至っているわけです。この現象について、私は「腹落ち」であると思っています。言葉としては知っているけど、なんか意味がわかっていない、みたいなことはないでしょうか?頭が真っ白になって考えられない状態から考えられるようになったというような変化点には「腹落ち(気付き)」があると思うのです。

子育てでいっぱいいっぱいになっている人に、いくら「余裕を持って」を声をかけても効果はありません。仕事が辛すぎて涙を流す人に「リラックスして」と声をかけても無意味です。本人が「腹落ち」しないと、状態に対する認知を変えないと、気付きを得ないと、囚われはなくならないのです。

私はサラリーマンで忙しく働いている時も、この「なんだか不安を感じる」状態に陥ってきました。別に周りは怒っているわけではないのに、怒っているように感じたり、早くやらないといけないと思ったり、強く言えば強迫観念のような思想の元、不安や焦りを感じました。フリーになった今でも、どんなに環境が恵まれていようと、好きなことしかしていない生活でも「なんだか不安を感じる」状態に陥るのです。サラリーマン時代も今回と同様に「自分の状態を認知すること」を行いましたが、今回ほど劇的な効果は正直ありませんでした。気持ちは一時的に落ち着きますが、また大変な日常に戻って行くのです。

無理がある状態でも余裕のある状態でも「なんだか不安を感じる」状況に陥り、「自分の状態を認知すること」によって「満たされて冴えている」状態に戻ってきました。今回はサラリーマン時代、つまりは余裕のない状態よりかは同じ手段を取って、回復量が異なりました。言い換えれば、より強い自制心を持ち、余裕のある状態となったのです。

長くなりましたが、今回は「自分の状態を認知すること」がブレている時に効果があるよ!という話でした。ただ、最後にサラリーマン時代の話を引きずり出してきたのは、理想とも言える状態でもブレる状態になり得るということを主張したかったためです。サラリーマン時代の私は、正直余裕のある暮らしをしたら、ブレないと考えていました。メンタルが不安定になることはないのではないか?と思っていたのです。しかし違いました。生活は異なっても、「自分の根っこ」が変わったわけではなかったので、どんなに余裕のある暮らしをしても、「自分の根っこ」を解決しない限りは同じ問題、つまりは「なんだか不安を感じる」状態に陥るということが言いたかったわけです。

以上の経験から、私は今後「自分の根っこ」に向き合うことになると思います。しなければならない、こうするべきだ、といった潜在意識はどこから来るのか?果たしてその潜在意識は変えることはできるのか?自分と向き合う旅はまだまだ続きそうです。


※最後に。
私がnoteに書き綴っている「囚われ」が「自分の根っこ」だと何となく認知しています。ただ、何がボトルネックとなって「なんだか不安に感じる」状態に陥っているのか正直、自分でもわからないのです。この件に関しては、おそらくプロに頼んでみては?と思う人もいるかもしれません。私は思いました。例えば心理カウンセラーのところに行ってみる、とか精神科に行ってみるとか。私はやってみたことがあるのですが、人前ではどうしても本音を言えずに演じる自分がいるんですよね。結局、自分で自分の首を締めることになるので、演じないように、と意識はするのですが、どこか自分の奥底の本音は出せなかったり、自分の根っこには中々辿りつかないわけです。また、次に書くことはあくまでも個人的な意見ですが、カウンセラーさんの元などに足を運ぶと、その人の捉え方、概念みたいのが入ってきて、結局自分の実態を正しく捉えられないんですよね。カウンセラーさんも生まれてからずっと私のことを見てるという状態ではないので、私が発する状態でしか判断できないんですよね。私が表現することでしか私を認知できないと言いますか。私は状態が複雑で、というか隠すのが上手い、というか、裏の裏まで読む、というか、なかなか自分の真の姿と言いますか、弱いところと言いますか、出さないんですよね。自分を表現したとしても、何かの形に沿ってみてるというか、思い出を補正するというか、うまく書けないですが、丸めると「演じる」自分がそこにはいるんですよね。そうした経緯があって、結局のところ自分で自分を認知しようと日々もがいているわけです。キーワードは無価値感、アダルトチルドレンかな。中の人でした〜!

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