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不安な人が満たされた人になって

私は「自分はこのままじゃいけない」という感覚が強いサラリーマンでした。常に自分に鞭を叩き、所属している環境で成果を出そうとしました。ここでの成果とは、所属している組織が「求めること」です。「求めること」には例えば部活動でしたら、どこかの大会で優勝することを指します。サラリーマン時代の私は、企業が「求める」人物像になりきったり(合わせたり)、言い換えれば自分の振る舞いや言動を意識的に変えてきました。その結果、周りとの関係は良好ですし、求められていることを体現するので、成果を出す人となっていました。仕事では出世し、度々表彰されたりしていました。

しかし、頑張り続けている中で、どこかずっと不安感を感じていました。「自分はこのままじゃいけない」その感覚が意識的に自分が感じるでもなく、ずっとつきまとっていました。

例えば、会社で飲み会があったりすると、かなり億劫でした。周囲が求めている人物像をプライベートな側面でも演出するためです。周囲の人が彼女ができなくて困っているという形であれば、自分もそうだと共感を示しました。私は常に彼氏をつくって心の平穏を保とうとするタイプでしたが、その彼氏の存在をいないことにし、なかなか好きな人できませんよね、という形にしていました。この時の私は「自分に彼氏がいる」ということを話すと相手が自分の状態と比較して、「マウント取られているかな?」と感じて居心地の悪さを覚えるかなと思った私なりの配慮でした。しかし、相手が必ずしも沿う感じるとは限りません。相手が「マウント取られているかな?」と感じるのは私の人から同じ行動をされたときの思考回路であって、自分の思いが相手に投影されているかたちだったのです。

私は所属するどの組織でも「良い人だが、どこか演じている人」になっていました。いつも迎合し、人に合わせて、調子の良い人でした。今思えば、厄介な人を見抜く心が健康な人には、常に一線引かれていたように思います。言い換えれば適切な距離を取られていたというか、あまり干渉しないようにされていたと言いますか、そんなところです。

「自分はこのままじゃいけない」と感じる私は会社を退職しました。私は研究者でした。CMもやっているような大手の企業で、本当に狭き門の研究の中でも花形の世界でやってきました。周りにいる人は優秀ですし、人としても成熟している人ばかりです。生活するにも十分で、会社からは様々な手当を当てがられました。月々数万円のなんでも使っていい購入券(指定されたところからモノやサービスを選ぶのもの)、無料の住む場所(いわゆる社宅。たいていは会社の指定した場所に住むものですが、私は自分の好みの家を探して、会社にここがいい!ということで好きな所に住めました)、会社以外の組織の教育サービスを無料で受講する権利、栄養士が考えたバランスの良い豊富な種類の社食(無料)、どこでも働いて良い風土(家でもカフェでも…)、いつ仕事を初めてやめても良い(いわゆるフレックス制度)、土日、祝日の休みはもちろん、40日以上の有給、春夏秋冬になぜか会社が連休にしている長期休暇…そしてもちろん高い給与。会社からもらった給与やほぼすべて趣味や貯蓄にまわせました。ここが普通なら家賃を払ったり、税金を払ったり、食費や雑費を払ったり、色々あると思います。それが会社の福利厚生という名の下、ほぼすべてを充てがわれていました。

書き出したらキリがないのですが、サラリーマン時代の私は物質的には本当に恵まれていました。上記の条件は同じ大学を卒業した友達と比較しても、恵まれていた方でした。皆大手に進んだり、ベンチャーに行ったりキャリアは様々なのですが、福利厚生の面や給与、会社の風土で言えば、そんな環境本当にあるんだね、といったくらい恵まれていました。

それでも私は常に不安な人でした。冒頭にも書いたように「自分はこのままじゃいけない」という感覚が常に自分を包み込んでいました。そのため、自分のキャリアを選択する際に、自分がやりたいことよりも、自分が大丈夫と思えることを選択しました。その大丈夫と思える条件の中に、社会的ステータスや給与面、福利厚生が含まれていました。学生からサラリーマンになった私は、この条件に非常に満足し、一時は不安がなくなったかのように思いました。しかし、置かれた環境で「自分らしく」しているとなぜか疲れていました。その疲れは少しずつ少しずつ蓄積し、「衝動性」や「無気力」という形で日常の私を困らせていきました。急にあるものに興味が湧き衝動買い、大人買いしてコレクションを始めたかと思いきや、すっかりその熱がなくなり、無気力になったりしていました。1日中ベットの上でSNSをいじっているなんてザラです。お風呂に入りにいくことすら億劫、お手洗いもめんどくさい、そんな始末でした。傍から見ると「それは病んでるね」と言われるような状態でした。

不安を排除する条件を理系の研究職というかたちで得たのにも関わらず、私はサラリーマンをやめました。これまで積み上げてきたからこそ入れた狭き門のオアシスから去りました。私にとってオアシスに見えた環境は、環境そのものはオアシスであるものの、私にとってはオアシスではありませんでした。

私自身は抜け殻になっていました。機械のようになっていました。自分の気持ちを押し殺して、常に演じて生きていました。自分が承認されるためにと言わんばかりに、周りの機嫌を取りました。完全なYESマンかと言えば、そうではなく、時にはNOも言って自分が軽視されない工夫もしていました。完全に策士でした。あらゆることをコントロールするエゴむき出しの人間になっていたのです。環境の良いオアシスで、不安な気持ちから生じる理想を抱き、それが更にエゴを生み、エゴを解消することで、自分が満足しようとしていたのです。

それでも私は何を得ても満たされず、頑張れば頑張るほど、疲れていきました。そうして1年前に競争の世界から離脱しました。丁度、このnoteを始めた時期です。それまでは何かと忙しくてSNSを触ってこなかった私は、自分の状態や私の周りにいた厄介な人(仮面をつけた人、囚われのある人、)、それに対して私自身がなりたいなと思えた無邪気で子供っぽいけどバランスの取れた人(満たされた人、囚われがない人)についてまとめはじめました。
私は幸いなことに、自分が空っぽではあるものの、「満たされた人」の形を知っていました。私が所属した組織には、無理をすることなく、毎日をイキイキとして過ごし、目が輝いている人がいました。私はこのタイプの人を知っていました。これが幸せのあり方だなと実感できる人が身近にいました。こちらにまとめているのですが、「仮面をつけていない人」の状態を私は長い時間をかけて、およそ10年間観察し続けてきました。


対して、抜け殻になっている私を、自分を大丈夫と思えていない私を攻撃する人をみてきました。エゴを解消しようと私を搾取するターゲットとする人に出逢いました。いわゆるコチラにまとめている「仮面をつけた人」です。


私が恵まれた環境を手放したのは、私自身が「仮面をつけていない人」になるためでした。そのあり方を知っているからこそ、私なりにすべてを投げ売って実践してみたのです。

しかし、私の期待とは裏腹に、私はすぐに「仮面をつけていない人」、所謂「満たされている人」にはなれませんでした。最初は自分が好きと感じていることすらわからず、手当たり次第色々とやっみました。これは「満たされている人」の条件であったためです。「満たされている人」は常に「好きなこと」をしています。これは「常に」です。本当にどの時間も好きなこと、自分が心地よいなと思えることをやっているのです。たとえご飯を食べるや寝る、お風呂に入る、人と話すなど、生活で不可欠なことを行っていてもです。「満たされている人」は自分の本能に従い、食べたいものを食べます。眠たいと思ったら寝ます。無理がありません。自分の気分で生活をしていたら、周囲に迷惑をかけるのではないか?と思うかもしれませんが、それもありません。この状態を語りつくすのはこの場では難しいのですが、そこには「満たされている人」の姿がありました。ただし、一つ言えることは「満たされている人」は誰しもが何も考えずにフィーリングでなれるわけではありません。「満たされている人」なりに避けがたい困難、つまりは満たされていない仮面をつけている人にいじめられるなど、なにか自分ではどうしようもない出来事に人生の中で巻き込まれたりしています。満たされている人はそんな経験の中で「理性」「本能」「感情」をバランスよく本人の中で調整した結果のあり方なのです。子供が大人になったからといって行き着く状態ではありません。そこには必ず「認知する」「気づく」というイベントが必要です。

話は戻りますが、満たされていない空っぽの私は、自由時間を手に入れて「満たされている人」になるために、「好きなこと探し」をはじめました。心当たりあることは全て試しました。ゲーム、エステ、ジム、ヨガ…しかしどれも長続きしませんでした。好きなことをやって、心地よく過ごしていていいはずなのに、やってみたいことすらない状態になったり、何もやる気が出ない無気力な状態になったりしていました。これはサラリーマン時代よりもひどいんじゃないか?と自分でも感じるほどでした。

結果的に言えば、私は紆余曲折を経て、恵まれた環境を手放して1年経った今、「満たされている人」になっています。その証拠と言ってはなんですが、noteを開かなくなりました。自分の気持ちを書き起こしたり、自分を苦しめた原因を分析したり回顧する必要がなくなったのです。

今の私は「好きなこと」を主軸に生活しています。人間関係も良好で、周りには自分と同じような「満たされている人」が主です。そのような人たちは、私が困っているから助けようと過度に近づいてきたりしません。人に対して無頓着でありつつも、周りと思いやりを持って過ごしています。かつての私は「愛」とはなにかわからない、おぼろげな状態でしたが、今では「愛」とは何かがわかります。これは周りの人になにかされたからではなく、私の感じ方の問題です。私の交友関係はさして1年前と変わっていないのですが、「仮面をつけた人」と私自身、適切な距離を取るようになりました。私自身が今に夢中になり、周りと「親しみ」を持って過ごしている中で、「愛」とはこれか!という状態になったのです。この感じ方についてはまた別の機会に語ろうと思いますが、周りの状態はあまり変化していないのに、私自身の感じ方が変わったのは確かです。

私がなぜこんなにも変化したかと言えば「好きなことを見つけた」、「自分を受け入れた」、「所属を見つけた」の3要素だと思います。私は今、スマホアプリの開発をしています。自分の好きなアプリを気ままに作って、それで生活しています。元々考えるのは好きですし、工作などのモノを作ることも好きなので「アプリ開発」というのは性にあっていました。

しかし、私はサラリーマン生活の中でも「アプリ開発」をしていた時期はあります。休みの日にアプリを作っては、市場に出していたのです。しかし、その時期はどこか「自分はこのままではいけない」と思っていましたし、頑張ってアプリ開発をしていました。対して今は頑張っていません。気が向いたらやっています。気が向いたらやるスタンスで短時間かと言えばそうではなく、好きなことなので、割と長い時間夢中になっています。それでは、なぜサラリーマン時代は「頑張り」いまは「頑張らない」ができるようになったかと言えば、次に語る「自分を受け入れた」が関係します。

私はずっと「自分を受け入れる」ことができませんでした。私なりに、その時々で工夫はしてきたのですが、今思えばずっと受け入れられていませんでした。サラリーマン時代は、紙に自分の気持ちを書いたり、人に話していました。私なりには、今の自分を客観視しているし、自分を理解していると思っていますし、自分は自分と捉えていると感じていました。それは今振り返っても事実です。私は私自身を捉えられていました。自分の現状を認識し、起こった出来事と自分の湧いてきた感情を切り分けて説明できたりしていました。勝手な解釈もしたりしますが、これは私が色眼鏡で物事を見ていると把握していました。ただ、この行動は色眼鏡をかけていることや、湧いてくる感情に気づいただけであり、私が「自分を受け入れる」には至っていませんでした。

「自分を受け入れる」とは今の自分で納得するということです。サラリーマン時代のわたしは、自分にどこか期待を持っていました。例えば自分の気持ちを紙に書いて、「〇〇な自分は好きだ」「〇〇ができて嬉しい」などと書いているときは自分に期待を持っていました。将来に実現したいイメージがありました。例えば周りの人間関係も良好で自分はイキイキとして生活していて…のような条件がたくさんあるイメージを持っていました。そのイメージはその時置かれている私の状態の延長線上にはなかった姿でしたし、どこか現実離れした姿でした。「〇〇な自分は好きだ」「〇〇ができて嬉しい」などと書いているときは、自分の理想的なイメージになるために、私自身がプロセスとして必要だと感じたことでした。

ここで、私自身面白いと思っている私の状態の変化を紹介します。次に紹介するのは、過去4年間の私が思い描く理想的な生活4つと直近半年の私のリアルな生活2つです。

2018年某日の1日の理想的な生活

2018年は新しい組織に入っててんやわんやしている頃でした。周囲が新しいメンバーになったということもあり、忙しくしていたことを記憶しています。それと同時に、新しい環境で何か自分がより満たされることにならないかと期待していました。それが2018年の某日の1日の理想的な生活に投影されています。今眺めてみると、何かと忙しいですし、内容にも具体性がなく、何を自分がしたいのかわかりません。おそらくこの頃の自分は忙しく何かと色々やっているのが満たされることだと思っていたのでしょう。極めつけは英会話が入っていて、この頃の仕事への意識の高さを伺えます。たしかこの頃は実際に朝に英会話をやっていた覚えがあります。

2019年11月9日に思い描いた理想的な生活

こちらはその状態から1年ほど経過した時の私が思い描いた理想的な生活となります。新しい環境に慣れたからか、以前のような忙しい日常ではなくなっています。ただ、2019年のこの頃は仕事に忙殺されていたためか、理想的な1日にヨガや発信時間など、自分がやりたいことが具体的になっています。ただ、勉強の時間が多く取られていますが、具体的に何の勉強かは記していないので、理想が投影されています。おそらく勉強をすれば満たされていると思っている自分の様子が伺えます。

2020年3月14日に思い描いた理想的な生活

こちらは2020年の私がイメージした理想的な生活です。昨年よりも少し忙しいタイムスケジュールとなっていますが、ヨガの時間やワークアウトなどカラダや意識を解きほぐしたいという意識の投影が読み取れます。2019年は発信活動としていた時間は2020年には自由時間に変わり、どうやら束縛の多いサラリーマン生活に疲れていたのではないかと自分の様子を伺えます。自由にして自分を楽にしたいというイメージが反映されています。

2021年2月9日に思い描いた理想的な生活

それから1年程度経過した2021年の理想的な生活です。この2021年頃は私がサラリーマン生活に見切りをつける直前の頃のものとなります。当時は私が会社を離れるなんて予想もしていなかったなぁなんて思い出せます。理想の生活に仕事が多く時間が割かれているので、まだまだ仕事を頑張りたいという忙しい中での意識の現れが見えます。今思えば、この頃はかなりカメレオンになっていたというか、自分を殺して組織のために動いていたので、仕事も大切だけど自分を調整するのも大切といった意識でいたことを覚えています。

2021年10月26日のリアルな生活

それから半年程度経った2021年の秋頃には、自由時間を手に入れて、「好きなこと」や「イキイキと生きる」ために試行錯誤していました。この頃は本を書いていて、右上に「本当は書いたものをお金にしたい」という思いがそのまま書いてあります。この頃はフリーになったのは良いものの、お金の心配はないけれど、稼いでいきたいなという気持ちの現れが出ています。この頃の円グラフにあるように、本を書いてお金にしたいとは思いつつも、その時間は多く取れていなく、買い物や休息タイムが多かったというのがリアルなところです。

2022年5月6日のリアルな生活

そしてコチラは今の私の生活です。2022年の今の私の生活はジムに始まりジムに終わります。そしてジムに行ってカラダをスッキリさせると、スマホアプリ開発をしているといったサイクルです。半年前にお金を稼ぎたいという欲はなくなり、今目の前にあることに集中しているのが最近の過ごし方です。スマホアプリの開発は今年の1月からはじめました。なぜやろうと思い至ったかは忘れたのですが、なぜか思い立ったらやっていました。こんなにフットワーク軽くできたのも、そもそも私が理系の研究者だったところは大きいと思います。この手のことは本当に息を吸うように難なくできます。そして思い立ったらやってみれたのも、それまでのゲーム、ジム、エステといろいろ好きなこと探しの中で、新しいことをやるのに慣れたというのもあると思います。初めては飽きて(やめて)を繰り返しているうちに、何か新しいことをするのに慣れた、抵抗がなくなったというところです。

こうして年単位で自分を振り返ると、自分を押し殺してて、自分を受け入れていない時期は理想を書きがちでした。それも現実とはかけ離れたものです。対して自分を表現し、試している時には、だんだんと「自分を受け入れる」ことができるようになったと思います。受け入れられるようになったのも、試したからです。やってみたからこそ、あぁ、自分は興味がないんだな、とか疲れちゃうんだなとかを感じ取っていました。その度に「自分はこのままではいけない」という想いが湧き上がるのですが、その度に次に説明する「所属を見つけた」ことで「自分は大丈夫」という感覚に立ち返っていました。

私はサラリーマンではなくなった時に一番困ったことが「所属がないこと」でした。これは長い目で見て気づいたことです。最初のうちは「好きなことがないことが問題」とか考えてました。しかしそうではなかったのです。一番の問題は「所属がないこと」でした。元々インドア派ではあるので、誰かと話さなくても大丈夫ではあるのですが、それが長期間になると、だんだんと私の精神に不安というか、衝動性をもたらしました。「人と話したい!」という、お腹が空いた、眠たいなどと同じくらいの欲求です。あ、これは心から欲しているなということを実感するくらいでした。そこで私は、去年までは自分で配信活動をして見ず知らずの人と交流していました。他にもパーソナルトレーニングジムに行って、横にトレーナーさんがいて交流することで、「人と話したい」という欲求を解消していました。しかし、パーソナルトレーニングジムでは、どこかトレーナさんに合わせて疲れてしまうサラリーマン時代の時のような自分が現れますし、配信活動ではリスナーさんは自分の話しを聞いてほしい!という「仮面をつけた人」の確率が高く、これはこれで疲れたりしている自分がいました。

そうして「所属がないこと」に悩んでいた私ですが、今年に入ってパーソナルトレーニングジムをやめて24時間行き放題のジムに通いはじめました。結果的にはそこが私の所属となっています。ジムに行って誰かと話すわけではありません。そこには未だに知り合いや友達はいません。ただ、毎日通っているだけあって、「あ、この人いつもいるな」みたいな顔ぶれは把握してきました。私はパーソナルトレーニングを選んでいた時、「会話」が必要かなと思っていたのですが、24時間行き放題のジムに変えてからは、「会話」は自分には必要なかったなというのが大きな気付きでした。

私は元々社交的なタイプで、両親からも「あなたがいないと場が盛り上がらない」「あなたがいないとつまらなかった」と言われるくらいムードメーカです(家族では)。友達との交流でも「人見知りしないよね」と言われます。そんな私なので、私は勝手に自分には人との定期的な会話が必要だと感じていたのです。しかし、これは先入観にすぎませんでした。私は「人がいる空間」に所属するだけで、満足するのです。

思い返してみれば、このnoteの記事を書く時もなぜか言えではなくカフェに行ったりしていました。なんとなくフラッとでかけてカフェで執筆するのです。それもどこか「人の存在」を求めていたのだと思います。カフェで作業して帰ってくると、どこか静かに満たされて帰路についていました。そのため、ヒントは自分の身近にあるのだなと痛感します。

余談ですが、人との会話、コミュニケーションは「みんチャレ」というアプリで最近は解消しています。このアプリは何かの目的同士でつながった5人組で励まし合って交流する場が提供されるアプリです。所感としては「満たされている人」が多く所属していると思います。サラリーマンをやめてから、人と繋がりたい一心で色々なアプリを試しましたが、ここが一番治安が良いと思います。精神衛生上良いと言いますか、オススメです。


ここまで長くなりましたが、私は「自分はこのままじゃいけない」という感覚をずっと覚えてきましたが、「好きなことを見つけた」、「自分を受け入れた」、「所属を見つけた」ことで、「満たされている人」に変わったなと思います。私の場合、好きなことはずっとそばにありました。好きなことのひとつである絵画が好きなこと、考えることが好きなこと、ストレッチが好きなこともそうです。無気力になったり、衝動的になっていたサラリーマン時代でもずっとそばにありました。ただ、サラリーマン時代、つまりは仮面をつけている時代は不安な気持ちや理想、エゴが先行して、そのそばにある好きなことに条件をつけていました。

絵画では自分自身も絵がうまい方がよい(理想的な絵が書きたい)という想い、考えることでは整理したり体系立てたりしたほうがいい、ストレッチではこのくらいカラダが外転、屈伸できたたいという想いなどです。別に絵画でも考えることでも、ストレッチでも、楽しんでやっていれば、できる条件などをつくりません。しかし、不安な私は、今の自分を受け入れられない私は常に条件を作っていたのです

私が満たされている人で好きなたとえがあります。子供が公園で急に走り出したときに、「どうして走っているの?」と尋ねても「走りたいから」とここたえるというものです。子供はこたえます。「カラダが勝手に動いたから」。もはやこたえようがありません。気づいたら走っていたのです。満たされている人もこの感覚の中でずっと生きています。走り出すことに、「この公園の端っこまで着けたらよしとしよう」なんて考えません。どこで走り出しても良いし、いつ減速して立ち止まったっていいのです。走ってたけど、急に小脇のたんぽぽに目がいって、たんぽぽと戯れていてもよいのです。大人で満たされている人は、人生を柔軟に寄り道します。その先に何があろうと構わないですし、その先になにがあるか、などと考えないのです。ただ、今原っぱに寝っ転がって、太陽が眩しい!(気持ちいい!)と感じる感覚の連続で人生が成り立っているのです。

ここでくどいですが、仮面をつけている人はこの話しを履き違えたりします。あ、気分で行動していいんだ!と衝動性に身を任せます。好きに買い物したり、好きなものを好きなだけ食べて、結果的に糖尿病になったりします。お酒が好きな人はついついお酒に手が伸びてアルコール依存症になるかもしれません。「好きなことをする」にしてもそこにエゴがあれば、執着や不安な気持ちがあれば、それはバランスを崩すことになるのです。

仮面をつけている人が満たされているためには、まずは「気づくこと」だと思います。「認知すること」からすべては始まります。気づかなかったら、変わりようがないのです。永遠に何かの思考に囚われたままとなります。先程もどこかで書きましたが、満たされた人は「理性」「本能」「感情」をバランスを保っています。バランスを保つことは子供にはできません。大人になって、「理性」つまりは社会には企業や家族という集団があるなどの色々な生活していく上での知識が必要です。更に「本能」でご飯を食べたい、眠りたいなどの欲求をコントロールしたり感じたりするスキルが必要です。最後に「感情」である出来事が起こったときの気持ちの変化、ときめいた、とか、びっくりした、とかに気づける能力が必要です。これらはどこまでできればいいなどという基準はないのですが、ようするに、どのレベル感であっても、これらの「バランス」が取れていることが「満たされている人」の性質なのです。仮面をつけた人はこのバランスが不安によってどこか歪んでいるので、依存性や衝動性を持ってバランスを保てないのです。

気づくには「試してみる」しかないと思います。試す中で気づきがあるのです。しかし、試す中で理想があると疲れてしまいます。「できなかった」「〜したほうがよかった」など想いが湧いてきます。そんな中でも、試した中には子供が気づいたら走っていたように「夢中になってた」ものが出てくるはずです。それはおそらく、幼少期から慣れ親しんだものだったりするかもしれません。私はなんとなく、今の生活の中にヒントはあると思います。本能的に敏感な要素というのは誰しもあると思うので、自分のお気に入り、一軍、大切なものは、もう小脇にかかえていると思います。自分がそれに何か勝手な解釈を加えているだけで。

大変長くなりましたが、ここまで読んで頂きありがとうございました。等身大の私を表現してみました。それでは、また。

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