より満たされるようになるためには
熱量を出すあり方には3種類ある。試したての状態、極め中の状態、極めが飽和した状態である。
1.試したての状態
1つ目の熱量を出すあり方は、初めて試してみている状態だ。これまでの自分はやってみたことがなかったけれども、実際にやっている状態だ。興味があることを、気になったこと、理想なことをなんでもやってみることだ。
この状態は安心している時でも、不安な時でもこの状態になり得る。自分の興味の方向がそもそも分からないので、試してみている。
不安な状態であるとこの状態の時は衝動的である。何か焦燥感や不安を感じて、何もしていないことができなくて、何かをするに至る。緊張した状態で始める。戦闘態勢という形で始める。何か効果を狙って始める。こうなったらいいなという期待を抱いて始める。中には、先に取り組み始めることのアウトライン、つまりジャンルの成り立ちを調べて知ってから取り組む場合もある。情報収集が先に来る場合もある。
対して安心している状態の時はリラックスした状態である。衝動的ではない。予め計画したり、余裕のある状態でする。無理なく取り組んでいる。何か期待を抱いたりはしない。下手でもいいと思えている。安心している人の場合も不安な人同様、事前に情報収集をしたりするが、知りすぎると、固定概念で自由に自分が動けなくなることを知っているので、先駆者がいたとしてもあまり気にしない。先駆者がいることに気がついているが、執着しない。
安心している時はカラダが勝手に動いてそうなっていた、という形になる。子供の頃はカラダが勝手に動いていたという状態になりやすいが、大人になるとそうもいかない。社会の中でバランスを取ることを学んでいるため、無意識の中で自分をコントロールしている。興味の方向は大抵の場合、これまで経験した中での理想、なんとなく興味がある方向、好きな方向であったりする。不安な状態で物事を始めるに至る。
2. 極め中の状態
2つ目の熱量を出すあり方は、興味のある方向が決まり熱中して取り組んでいる時だ。
不安な人の場合、自分が心地よいと思う理想という方向に向かう。ひとたび始めると、没頭する。休むということがない。何か結論が出るまで執着してやり続ける。
対して、安心している人の場合は、好きな方向ではなく、違和感を感じる方向に行く。つまり、どうなるか分からない、予想がつかないけどやってみている方向に向かう。大抵の場合はやってみるとうまくいかない。やりすぎたりする。引き算を知らない状態となる。こうして、多方面に試している中で、引き算を始める。自分にとってより、世界が開けそうな方を選択していく。自分の中でキーワードとなる要素を残していく。多くのごちゃごちゃした状態から、何だか分からないけど、夢の方向に近づきそうと思える変なものを残すようになる。そのような中で、取り組んでいることが体系立っていく。ユニークさを極めた形となっていく。
なお、世の中で天才と呼ばれる人は繰り返し試さずとも、一発でユニークな形に辿りついた人である。個性的な形にたどり着いた人である。しかし、いくら天才でもそのあり方に至ったのは偶然であることが多い。ビギナーズラックであることが多い。その世界を知らないがために、固定概念がなかったからそこ、至っているにすぎない。この場合、再現性がないため、一発屋となる。こうして後から自分の大切にしていることは何なのか、自分がやりたかったことは何なのか、自分は何者なのかとアイディンティティで悩むこととなる。しかし、悩んでも安心している人は、自分はこれでいいとその時なりのアイディンティティを見いたして、再び挑戦を始める。
不安な人は、好きな方向に進む。理想な方向に進む。物事に対して没頭する。休むことを知らない。テクニックばかりを習得する。できることを増やすあり方である。これは今の知識の中で目標を見いたしている。このあり方を極めても芸術にはならない。趣味の世界から出ない。誰かの模倣となり、その人自身のアイディンティティとはならない。他の人の要素をかき集めた仮面の塊のような状態となる。上っ面な状態となる。その表現には余裕がない。余白がない。このタイプであると永遠に同じジャンルに居続けることとなる。ジェネラリストにはならない。何者にでもなれる状態にはならない。一生、ついてまわる不安な気持ちに悩むこととなる。不安な人は一生、自己保身をし続けることとなり成長しない。
3.極めが飽和した状態
3つ目の熱量を出すあり方は、壁にぶち当たった時の状態だ。ゲームで言えば、これ以上うまくならないというところに至っている状態だ。勉強で言えば、偏差値が伸びなくなっている状態の時だ。創作活動、たとえば絵をかいていると、何だか同じような絵ばかりを描くようになる時だ。成長がない時だ。
壁にぶち当たった時、安心している人は自分の中の心の変化や感じ方をつぶさに観察する。この表現の時は、スムーズにいったけど変わり映えしなかった、あちらの表現の時は、途中まで混乱していたけど、最終的には変なこれまで見たことのない形になった、と変化を辿る。
対して不安な人は世の中の情報をつけ合わせる。同じようなジャンルの人の真似をしてみる。比較して自分に足りないのは何かと考えたりする。結果、誰かの表現の方に引きずられるようになる。ここでも理想な方向に進もうとする。何か目標を立てて進めようとする。しかし、このあり方を選択しても目標を超えることはない。本人は常に緊張しており、いつまで経っても自分のあり方を良いと認めない。実は始めたてであっても、継続中であっても、壁にぶち当たった時でも、どれも「成功している」状態であるのにも関わらず。どの状態であっても「失敗している」と感じる。既存の知識や解釈の中で物事を判断するに至っている。
安心している人は、壁にぶち当たっても、始めたてであっても常に「成功している」と感じる。どの状態もある過程に過ぎず、どこかに到達しようとしない。安心している人は目標を立てない。しかし夢は抱く。何となく面白そうだなというイメージを持っているが、夢を持っているが、そのイメージに辿りつくことに執着しない。むしろ、夢に辿りつくプロセスを楽しんでいる。過程を楽しんでいる。今はどのような形でもいい。ただし、いつでも困難がある。目の前には課題がある。その課題を解決しようと、常に向き合っている。自立している。
不安な人は、既存のフレームワーク、方法をできるようにすることで、壁を乗り越えようとする。手段は確かに物事を解決することには繋がる。しかし、自分が立っている場所でどんなに情報をかき集めても、目の前の壁を乗り越える手段にはなり得ない。仮になる場合は、先人の誰かが歩んだ道を歩いている。そこを歩いても、自分自身が満たされる形にはならない。ゼロからイチを生み出すことには繋がらない。
おわりに
私は理系の研究職を生業にしてきたが、表現の世界ではなくとも、上記の法則は成り立つ。論理的で感覚的ではないと思える世界でもこれは成り立つ。合理的で効率化ばかりを追求した世界でもこの法則が成り立つ。
多くの場合が不安な人のあり方を選択する。そこには再現性だけが存在し、新たな発見をするに至らない。何かのジャンルを組み合わせた研究成果しか出ない。これまで全く認知されなかった新しい気づきを得る研究成果にはなり得ない。一流の研究結果を出せない。
数字に強かったり、小難しい文章が書けたり、物事を正確に伝えることは技術にしか過ぎない。これらはテクニックに過ぎない。テクニックはすぐに身に付く。だが、目先のテクニックや理想を追求することが極めること、本質だと取り違えている人が多いなということはこれまでの経験上痛感する。
不安な人には誰しもがなる。それは社会と関わって生きているからだ。避けがたい困難にぶち当たるからだ。固定概念を身につけることで、ひとりで生活していけるようにしているからだ。しかし、いつまでも安全思考でいなくとも良い。自分の身を守ろうとせず、理想ばかりを追求するのではなく、勇気を持って自分を信じることで、安心している人へと変われる。成長欲求に従うと、余裕が生まれる。なぜかこれまで欲しくてたまらなかったお金や社会的地位、周囲との良好な人間関係、健康などが得られている。自分らしさを追求できるようになる。自分の能力を最大限発揮できるようになる。勇気を持って休むと、より満たされるようになる。