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酔えない件について

 酔うと言えばお酒を飲んで酔うことをイメージすることが多いと思いますが、今回は「人生に酔えない」ということを話ていこうと思います。

 お酒を飲んで「酔う」には様々な状態があります。ほろ酔いのように気持ちよくなったり、飲みすぎて気持ち悪くなったりする状態です。他にも飲んでも全く酔えない人がいます。人生にも同じことが言えるのではないでしょうか?ちょっとしたことで心地よくなる「お酒に弱いタイプ」の人もいれば、何か嫌なことがあって発散するかのように動いたら逆に辛くなる「お酒に飲まれるタイプ」な人もいて、飲んでも飲んでも理性を保ったままである「酒豪タイプ」な人がいます。

 私は「酒豪タイプ」です。何をしても自分が心地よいという状態がわかりません。みんなの真似をしてお酒をたくさん飲んでみたり、安い酒から高い酒、日本酒から焼酎、ワインまで様々な種類を飲みましたが、ほんわか気持ちいいという状態になれません。自分が心地よくなろうと思って、動物と触れ合ったり、スポーツをやってみたり、マッサージを受けてみたり、ゲームをやったりしましたが、酔えませんでした。心地よくなれませんでした。

 お酒を飲んでいる状態が警戒心ゼロなリラックスしている状態、理性的ではない状態、理性と対になる言葉である本能を使って「本能的な状態」とするならば、人生を常に本能的に生きることはできるのでしょうか。私は子どもの頃はおそらく「本能的な状態」でしたが、大人になるにつれて「本能的な状態」ではなくなりました。行き当たりばったりではなくなりました。「酒豪タイプ」の私は何をしてもリラックスして事にあたる形になりませんでした。何をしても戦略的に行動し「理性的な状態」を保つ「酒豪タイプ」の私は、「人生に酔えない」形となりました。

 それでは、どうやって「理性」を外して「本能的な状態」に戻ればいいのでしょうか。かつての私は自分の嗅覚を元に日々を過ごしていました。毎日パチッっと目が覚めて、両親が作ってくれる美味しいご飯を食べます。学校に行くと毎日が新鮮でした。友達がいて、歌ったり、駆けまわったり、何か作ったり、飽きることなく過ごしていました。家に帰ってくると家族に今日何があったかを話し、笑い合っていました。絵に描いたような幸せな生活を送っていました。今が楽しく、あまり将来のことについては考えていませんでした。なんとなく思いにふけてみることもありましたが「今が楽しいので別にその時になってからでいいやと」と思い、お気に入りの過ごし方に戻っていきました。気ままに絵を描いたり、話したり、うたた寝したりしていました。

 私は大人になって、子どもの頃のような「本能的な状態」の生活を真似してみましたが、正直できませんでした。人生に酔えなかったのです。たとえば、このブログなど書くことを瞬間瞬間で楽しむことはありますが、俯瞰して見れば満足していないのです。理性的な時間も多いなと感じます。理性がある時は何か理想を掲げます。なんとなくこうなったらいいなと目標をイメージします。それに関連する情報を集めたりしていると、現実と理想のギャップに悩みます。どこか居心地の悪さを感じます。このままではよくないのではないかという思いに駆られます。こうして理性的な時間に自然と「エゴ」が出てきて、心地よくないと感じる形となりました。

 私は「エゴ」をなくすためには「休むこと」だと思ってきました。世の中には人に考えていることを話す、自分の考えを紙に書いてみるなど様々な方法がありますが、私は休むことで自然と「エゴ」をなくせると捉えてきました。おそらく、そんなに外れてはいないと思います。これは私の周りにいた子どもらしい人がやっていた共通点だったからです。子どものような「本能的な状態」の人は休息を大切にしていました。どんなに忙しくても、責任が重くても休むことで、イキイキしているあり方になっていたのです。私もこの真似をしてみました。会社を辞めてまでもしっかり休んだのです。結果、現在の私は十分に休んだという感覚を持っています。むしろ漠然とある時間に飽きてきているくらいです。自由な時間を持て余して辛いと感じているのです。

 私は「酔っている」とも例えられる「本能的な状態」になれなかったのです。生活しているとふと理性が顔を出します。「エゴ」が湧いてきて、居心地の悪さを感じます。「エゴ」はマインドフルネスのように今湧き出てくる思考を観察して自覚することで、気持ち的には落ち着いたりしますが、どこか無理をしています。マインドフルネスも別に好きでやっていないのです。子どもの頃はもっとアホでいたと思います。こんなマインドフルネスのような自分がどう考えているかをただ認識するという小難しいことをしていなかったのです。

 現状では、休んでも休んでも湧いてくる「エゴのなくし方に対する見解は持てていません。休んでも、安全な状態に置かれても、気ままに好きなことをしてみても「エゴ」があるのです。何かに囚われている自分がいるのです。私は囚われや執着は心の不安からできるものだと思っています。「エゴ」は不安があるから湧いてきているのだと捉えています。人生に酔うことができず、酒豪タイプで居続けているのです。それでは不安を見つけるところから始まるのかなと思うのですが、正直今の私では何を自分が不安に思っているのか自覚できません。家族関係は良好であるし、安全に暮らせる家はあるし、食べ物も好きなものを得てて運動も気ままにできている。どこに不安があるのだろうというところです。ひとつ言うのならば、ある特定のコミュニティに所属していないというところくらいです。

 そんなわけで、今日は「人生に酔えない」自分を自覚して、どうすれば「本能的な状態」になれるのだろうか、という話をしました。本能的になるために子どもの頃の生活を再現してみましたが、私の場合は「エゴ」が出てきました。この「エゴ」が本能的になれない原因で、これは私が心に不安をためているからだという結論に至っています。私はどのような不安をためているのか自覚できません。そのため、今日はどのような「エゴ」が出ているのかを1日観察して心の不安を探っていき、またブログで報告しようと思います。

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