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内観することは必要か?

内観は広辞苑では下記のような形の説明がある。内観することは、心に不安がある人にとって、大変しんどいことである。不安を解消するために内観することが必要かと言われれば、私はそうではないと思う。

①〔仏〕精神を集中して心中に自己の本性や真理を観察すること。また、その修行。
②〔心〕(introspection)自分の意識体験を自ら観察すること。内省。

内観しても、心に不安がある場合は囚われがあり、思考に偏理がある。自分を観察しても、そこに勝手な解釈がつく。

例えば、育てられた環境がどこか暴力的であったり、支配的、存在を無視してくるような形であれば、本能的に自分の身を守るようになる。そして、自然と世の中は困難で溢れていると思うようになる。警戒する。サバイバルするための思考ができあがる。

また、不機嫌な人や何かと見返りを求めてくるような人と関わることが多ければ、感情に振り回されるようになる。相手の行動が安定しないため、逐一それにこたえる形を取るようになる。何かの条件つきでしか、認められることがなかった。そうすると、何かしないと自分はよくないという囚われができるようになる。

他にも、自分が傷つかないように、うまくふるまってきた形もある。ある楽しい環境、自分が心地よいと思える環境を保とうとする。心のどこかで不安を感じているため、理想を追い求める。

私は人生で困難なことが多かったので、どうしてこうなったのか、自分がよくなかったのかと内観した。私の本性や真理を観察しようとした。また、私の心の移り変わりを観察することをした。しかし、これらをやっても、どこかに心の不安があった。

不安を感じてきた人にとって、内観することは大変である。これまでのことを思い出すし、悲しみに支配されることもある。どうしようもない怒りを感じることもある。内観すると自分はよくなかったのではないかと思えたり、いや、ベストを尽くしたとあれこれ考える。結局のところ、人は人、自分は自分となり、よかったのだ。全てなるようになった。あれ以上でも以下でもないと思える。しかし、大変なことを経験したことは変わらないし、それを振り返る時はその時の感情や思考に左右される。逆に不安が募る。冷静でいられない。不安から何か衝動的に行動しようとする。もう頑張っても無駄だなと無気力になる。疲れる。

私は不安を解消するために内観することが必要かと言われれば、しなくてもいいと思える。結局、過去について振り返ろう、自分のことを理解しようと思っても、自分は自分である。傷つくのに自分から傷つきにいく必要はないと思う。内観せずとも、充分に休息することで、意欲が湧いてくる。自分にだけ応えるようになる。うまくやろうとする必要もないし、自分が思うがままに取り組めば良い。



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