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痛みを手放すプロセス

私は腰とお腹が痛かった。身体がだるかった。先日は起き上がれないほど痛辛かった。スマホすらいじれなかった。今は起き上がってこの記事をかけているが、火中はそれどころではなかった。この体調不良に私は度々なる。一時的ではなく、一度なると2日程度は継続する。痛くて何もできない。痛みに疲れてお昼は寝ている。時には意識を失う。何かをしている途中にパタと倒れる。そんな大変な痛みを手放す方法があるので、プロセスを紹介していこうと思う。慣れると途中のプロセスをすっ飛ばして最後の状態になれる。どこでも、いつでも痛みを手放せる。なお、このプロセスは、私の他の記事でたびたび出てくる"頭を空っぽにする"というプロセスと変わらない。囚われをなくすプロセスと変わらない。

1.置かれている環境に慣れない

痛みを手放すにあたり、慣れないうちは、はじめにその準備をする。置かれている環境に慣れるための準備だ。しかし、こうしなければならないという意識に支配されることにもつながるので、正直やらなくてもいいかなとも思えるが、私の場合はこのプロセスを踏んだ方がやりやすかった。それは、私がヨガをやった経験があるからかもしれない。

1.1横になる

痛みを感じている時は、正直他のことが手に付かない。そのため、じっとしている。痛みに耐えている。丸まっていたりする。そうして、耐えると思うが、その状態から横になってほしい。できれば、ホットカーペットの上など、少し硬いものの方がいいのであるが、そのような環境がない場合は布団に入ってほしい。初めはこの状態に慣れない。痛いためあちこち汗をかく。汗が気持ち悪い。そんな中痛みも襲ってくる。じっとして他のことをしなくなったせいか、痛みを強く感じる。さすったり、その痛みを感じる部位に手を無意識のうちに乗せていたりする。(なお、なぜ硬いものの上の方がいいかと言えば、柔らかいものの上であると、どこか力が偏ってしまうためである。力が偏ることは、最終的に思考を平衡にする状態にしにくくなる。しかし、人によっては尾骶骨が当たって痛いなどあるので、強要はしない。継続しやすい体勢をとる。また、力が偏っていても、いかなる体勢であろうと、慣れてくればどこでも痛みがなくなる。)

1.2口を閉じる

ひとつ意識してほしいことがある。口を閉じることだ。鼻呼吸をする。人によっては鼻の構造上、口を閉じると呼吸をしにくい、酸欠になるという場合がある。他にも、鼻が詰まって呼吸ができない場合もある。そのような場合は口呼吸で良い。そうでない場合は、できれば口を閉じて欲しい。

しかし、痛みを感じている場合、そうでない時よりも口を閉じることは難しい。呼吸をすることで、痛みが小さくなるからだ。痛みを感じている部分に酸素を届けることで、呼吸を一定のペースで繰り返すことで、痛みを小さくできる。呼吸を安定させることで痛みを小さくできる。しかし、本ケースでは”痛みを感じない”ところまでいきたいため、はじめに口を閉じることを勧める。最後まで行けば口を閉じていることは特に関係のないことなのであるが、体や心を管理しやすくなるため、口を閉じることを勧めている。

1.3力を抜く

口を閉じたら、身体に入っている力を緩めていく。眉間のしわ、目のまわり、口まわり、あご、首、肩、腕、指先、胸、おへそ、腰、お尻、太もも、膝の裏、ふくらはぎ、足首、足先と意識を身体の各部分にずらしていく。はじめは意識をずらすことが何なのか分からない。目でその部位を見ることはできるが、意識をずらすことは正直分からない。そのような場合は、目を閉じてその部位を見るような意識をしてほしい。首を持ち上げてその部位を見るのではなく、眼球を動かして、目を閉じたままその部位を見るようにする。そして、力を緩める。手であれば、握ったり緩めたりを繰り返してみてほしい。緩めると、手はボールを持っているような丸い手となる。真っ直ぐピンと指先を伸ばした状態ではない。そのような楽な状態に各部位をしていく。口も力を抜きにくいので、「あー」や「いー」といった口の形にしてから、口を閉じてみてほしい。それまでは頬に力がかかっていたところが、楽にできる。舌は上顎につく。

1.4ゆっくり鼻呼吸する

身体を緩めたら、鼻で呼吸をしてほしい。それも普段の呼吸よりも遅いペースで。ゆっくり鼻から息を吸うと、はじめのうちは息を吸う強さが強くなったり、弱くなったりをくり返して息を吸う形となる。一定の強さで息を吸うことができない。それでもいい。そのうち慣れて一定の強さで息を吸えるようになる。鼻から大きく息を吸うと、お腹が膨らむ。胸が膨らむ。そして、もうこれ以上息を吸えないという状態がくる。そうしたらその状態で、一時停止して欲しい。つまり、呼吸を止める。1、2と数えて、また吐き出す。吸うときよりもゆっくり吐き出す。吐き出す時も同様、一定の強さで吐き出すことができない。途中で息を止めている状態になったりもする。それでもいい。意識してゆっくり吐き出してほしい。そして、もうこれ以上吐き出せないというところまで、息を吐き切ってほしい。その頃には、お腹は凹んでいる。胸も凹んでいる。身体に力が入っている。そうしてまた、ゆっくりと鼻で息を吸ってほしい。この動作に慣れるまで続けて欲しい。そのうち、1、2と数えることをしなくても、お腹に息をいっぱいにして吐き出せるようになる。呼吸の強さも一定となる。初めのうちは、この動作をするだけでいっぱいいっぱいだったところが、特に意識をすることなくゆっくりとした鼻呼吸ができるようになる。そうすると、呼吸に意識していた時は遠のいていた痛みを、また再び感じるようになる。思考が湧いてくる。不快感が襲ってくる。10回くらい続けると、慣れてくるのであるが、そうすると次の状態に移る。なお、実際に試みる時は数える必要はない。なんとなく飽きたと思ったら、呼吸に疲れたと思ったら次の状態に移って良い。

1.5呼吸をいつものようにする

ゆっくりした鼻呼吸に慣れたら、いつものような呼吸に戻す。戻したての時は、軽く走った後かのように、呼吸が早く乱れていたりする。しかし、呼吸を続けていると、それも同じペースを保つようになる。呼吸を戻すと、体の状態に意識がいく。先ほどよりも汗をかいた、尾骶骨が痛い、肩が痛いなどである。周囲の音や匂いが気になり始める場合もある。痛みをまた感じ始める。人によっては、横になる前よりも身体の状態に敏感になり、不快感からやらなければよかったと思えるような状態である。逆に心地の良い場合もあるが、この感じ方は人それぞれである。

2. 思考や眠気が湧いてくる

痛みを手放すにあたり、思考や眠気が湧いてくる。痛みを感じる。どうしようもなく辛くなる。痛みを手放すためにすることは、受動的になることだけなのであるが、この状態が一番辛くて投げ出しがちである。そのため、その状態で起こり得ることをつらねる。自身がこの状態となった時に、皆が通る道、このままで大丈夫となることにつながればと思う。

2.1受動的となる

呼吸を整えると、体や周囲のことに敏感になる。痛みが襲ってくる。私の場合は腰が痛い。お腹が痛い。もうこの痛みは無視できない。身体をよじらせたくなる。痛みとしてはじっとしていることしかできないのだが、じっとしていることが辛い。反射的にもうその体勢を取ることが困難である。うーと声を出したくなる。能動的になる。動きたくなる。そこで、今回のポイントとなる、この衝動にこたえることなく、ただ受動的となることをする。痛みを感じ続けるということではない。結果的に感じなくなる。ただ、その火中にいる時は痛みを感じる。無理だと思う。辛すぎる。

また、受動的になっている時は、観察することを取り組むことがある。観察することは、受動的になっているようで、そうではない。意識が働いている。観察する、痛みを観察するという意識が働いている。自我がある。受動的になることは、観察することではない。観察すると、先ほどの身体の力を入れている時と同じように、痛みを感じているところに意識を向ける。痛みに意識を向けることは、受動的になっていない。観察して、一歩ひいている事象ではあるが、その行為は痛みに注意を向けるといった所作がある。受動的になるとは、痛みに注意を向けないということである。痛みにこたえないということである。

ただ無理に沈黙しようとする必要はない。受動的になることを、意識をしないということだと思うことがある。意識をしないことを意識している時点で、そこに意識はある。文章で書くと非常にわかりにくいが、無理になにかしようとしなくていいということである。静寂な状態は自然にやってくる。痛みを感じない状態は自然とやってくる。ただ、痛みを感じている時はそれどころではない。痛みは次から次に襲ってくる。初めのうちは、痛みを感じすぎてただ疲れた。無気力になった。もう抗わない、といった形になる。疲弊していると思う。こんなに苦痛ならばやらなければよかったとも思う。脱力する。この状態が一番辛い。一番辛いが、痛みはそこにあり、感じている。そこからより楽になる状態がある。

2.2眠気を受け入れる

受動的となっていると、眠気を感じる時がある。痛みで身体が弱りきって眠ろうとしているかもしれない。このような時は、素直に寝ると良い。しかし、今回の痛みを手放すことは、眠らなかった状態の先のことを指す。体力があったり、充分に睡眠を取っている場合は2.1の状態からこの先の状態にいくので、引き続き説明していく。

2.3リラックスして覚醒していく

この先はただ、痛みや思考が湧いてきたり、それに自分が争おうとしたりの繰り返しである。初めて取り組む場合は、2.1の受動的になる状態と正直何も変わらない。しかし、私がその状態を説明するならば、6つの状態に分かれる。次の記事の4~9のような形だ。(なお、これまでは次の記事の1~3までを辿ってきた)

6つの状態を細かく語ってもいいのだが、ここではそれをしない。なぜなら、受動的になっていれば、痛みを手放す瞬間はくるからだ。強烈な痛みを感じて、どうしようもなくなっている中、やることは一つでいい。湧いてくる痛みに抗わないことだ。特別なにか意識したりしなくていい。

3.痛みを手放す

ただただ受動的になっていると、痛みを手放す瞬間がくる。リラックスと覚醒した状態が両立したような状態となる。これまでは、リラックスに偏っているか、なにかに意識を向けた覚醒した状態のどちらかに偏っていた。

痛みを手放した時は、痛みを感じない。これは後から振り返ってみれば感じていなかったなといった状態だ。痛みを手放している最中はそれに意識がいくことはない。

痛みを手放した時は、時間の流れを感じない。例えるならば、本を読んで熱中している時のようである。本を読んでいる時は、その内容に熱中している。本を読んでいるということを意識しない。気づけば時間がたっている。その本の内容を理解しつつも、自分が今どんな体勢かとかどんな気持ちかといったことは意識しない。結果的に感動して泣いていることはあるかもしれないが、意識して泣くわけではない。他の例えで言えば、踊っている時のようである。踊るときは多くの場合、振り付けを事前に覚えたりする。踊れるようになると、次の振りはコレ、その次はコレと考えたりしない。気づけば踊っている。踊り終わっている。もちろん踊っている途中は意識がある。楽しいと感じている人もいるだろう。しかし、本当に楽しんでいる時に、踊っている最中に楽しいと感じることは少ない。後から振り返って、楽しかったのだ。当の本人は、踊っている最中は後から振り返れば踊らされている、かのような感覚となる。こんなふうに決めればかっこいいなどと意識しない。仮に意識する場合は緊張している。リラックスと覚醒が両立した状態ではない。

本の例と踊りの例を挙げたが、痛みを手放すのと共通しているのは、エゴがないことである。意識の囚われがないことである。受動的になっていることである。受動的になることは、静寂を連れてくる。静寂は痛みを手放す。優しく包み込む。





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