変化に気づく人
人が求めていることを察することが得意な人がいる。このようなことを言ってほしいんだな、あれをやってほしいんだな、すぐさま分かる。周りからは洞察力あるよね、よく気づくよねと言われる。
このような人はこの能力を頑張って身につけたのではない。勝手に身についていた。
幼い頃を回想すると、その思い出は周囲の人から可愛がられている。優しい子、面白い子、聞き分けがいい子。何かと褒められることが多かった。
また、疎外感を感じたり、仲間外れにされたことがあることを経験した人もいる。これらのような経験をした人は、周囲の顔色に気づくようになる。自然と気づいてしまう。
可愛がれた人は、褒められることに優越感を覚えた。特別だと思えた。注目を浴びた。褒められて悪い気はしないし、それにこたえるようになる。例え、自分が元気がなくても心配させまいと頑張る。元気だと周囲は安心する。
疎外感を感じた人は、仲間に入ろうとした。別に自分はみんなと違わないし普通だ。しかし、仲間外れにされるので、周囲の様子をよく伺うようになった。振る舞いを真似する。すると、周りの人は安心して仲間に入れる。不安で警戒している人に、大丈夫ということを示す。
この能力が仇となる時もある。いつでも周りの様子を見ている。自分が気を休めてぐったりする時なんてない。そうしようものなら、これまで取ってきたバランスが崩れると思っている。
しかし、それにも限界が来る時がある。沢山の情報が入ってくるので、人よりも疲れる。疲れる分どこかでほころびが出る。ミスをする、過敏になる、やる気がなくなる、無気力になる。そうして、その大変な状態から抜け出せない。抜け出すとしても、無理をして今まで築き上げた環境が壊れる。壊そうとしたのか、壊れたのかは場合によるが、限界がくる。
このような人は、人にこたえてきたのだ。かつては幸せな思い出でいっぱいだとしても、人にこたえてきたのだ。周りも別に悪気があったわけではない。ただ、抱いた感想を言葉にしていた。しかしそれが何かに偏っていた。優しくなかったり、元気がないことを受け入れなかっただけだ。変化するのを少し億劫に思っただけだ。仲間外れにされたのも、初めて会う人に警戒したからだ。誰だってはじめてのものに警戒することはある。それは防衛本能として正常だ。しかし、そのような環境で無理をし続けると、疲れてしまう。
このような人はゆっくり休むことである。頭と身体を空っぽにすることである。ゆっくり休むと、意欲が湧いてくる。周りにこたえない意欲だ。エゴのない意欲だ。こうしないと、あぁしないとなどと思わない。それはゆっくりお茶を飲むことかもしれないし、縁側で日向ぼっこすることかもしれない。日頃意識せずにしていることだ。
そのエゴのない意欲に従うことだ。すると、下手でもいいから物事を楽しみ始める。自分のできることをする。そうして気の赴くままに取り組んでいるうにち、ユニークなものができる。この人がやったんだなと分かることだ。
ユニークな表現をしていると、生活に困らなくなる。結果としてお金が手に入り人も集まる。そして、これまでのことを人に託して、また新しいことを気ままにはじめる。
何者にもなれる。より満たされる。