違和感の方向に歩んでみる
絵を描いたり、作曲をするなど自分から行動することの中で、どこか煮詰まったなと思ったらオススメする方法がある。それは違和感の方向に歩んでみるということだ。
例えば、音楽を聞く上でこの音楽は受け付けないなと感じるものはないだろうか。フュージョンであったり、ジャズであったり、人によって様々であると思う。その受け付けないなと思うことをどっぷり繰り返し試み流るのだ。ここでオススメする例は、同じ曲を聞くことだ。絵のある場合は、同じ絵を何度も見ることだ。一度見て、部屋の中をぐるっと一周して再度見る。お手洗いに行って再度見るといった形だ。
不安な人である場合、自分に受け付けないものに接するとイライラした感情が募る。自分の思い通りになっていない事に嫌悪感を抱く。安心した人である場合は感情的になることはないが、初めて接するものなので、どう捉えるのかに悩むといった形のリアクションをする。それは初めて動物と触れ合う時のような形だ。不安な人であるにせよ、安心している人であるにせよ、違和感の方向に歩んでいくと認知が広がる。見える世界が変わる。これは自分が見る世界の彩りを豊かにする。味に例えると様々な味を感じ取れることと一緒だ。それに触れている時は、細かいことなどは気にしないのだが、知っていると知らないとでは満足感が異なるのだ。
この”満足感”とは何を指すのか、どんな気持ちよさを指すのか。例えるならば、子供の頃はわからなかった”詩”に面白みを感じるようになることに近いかもしれない。サウナに行って”整った”と話す人と同じような感覚とも言えるかもしれない。ある絵を見て若い女の人のように見えたり、老婆のように見える事に近いかもしれない。閃きとも言えるかもしれない。イメージが降ってきたということと同じことを指しているとも言えるかもしれない。人に褒めてもらった時のワクワクした気持ちに似ているとも言えるかもしれない。高揚感とも言えるかもしれない。その感覚は初めに認知が広がった瞬間は強い刺激である。ただ、繰り返し受け付けないなと思うことに接すると、初めの刺激からは弱くなっていき、これまでは気づかなかった事に気づくようになる。その気づきは小さい。自覚できなかったりする。言語化できなかったりする。しかし自分の中では落ち着いて穏やかな感覚として残る。これが安心している人が常に感じている感覚である。安心している人が違和感の方向に歩むと、これまで知らなかった自分に出会う。自分以外のものと触れているにもかかわらず、それは自分に出会う事に繋がる。何者にでもなれる一端となる。
このような抽象的なニュアンスで物事を書くと、かつての不安な人である筆者はもっと条件などを書いて欲しいと思う。そのかつての自分にこたえるためにも、だんだんと条件に落とし込めていければいいなぁと思う今日この頃である。