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やる気が出ない人

休日は特に何もせず、動画を見たり散歩をして過ごす人がいる。昼まで寝てなんとなく重たい身体を動かす。せっかくの休みだからもっと有意義に過ごしたいと思うのだが、なかなかできない。SNSを徘徊していると毎日楽しそうな人がいて、自分とは違う人だなと感じる。何かと日常をコミカルに描いている漫画が好きだ。自分はこの状態よりはまだいいかなと思えてなんだか安心する。親近感を持てる。

友達はいなくはないが、特に連絡を取らない。急に連絡をするのもどうかと思うし、連絡して会ってみても気疲れして終わる。こんなことなら会わない方が良かったかなといった形になる。そうして休日はひとりで過ごすことが多いのだが、なんだかつまらない日々である。このままでいいのかと思う。一念発起してダイエットや今後のためになりそうなことをやってみるのだが続かない。1週間くらい続けられたとしても、忙しくなるとやらなくなる。結局また元の生活に戻る。

このような人は、これまで大変な環境を乗り越えてきた人だ。その時々に困難があり、ベストを尽くした。その時できる限りの精一杯のことをした。後から振り返れば、こっちの方が良かったかなと回想はできるが、結局はあの選択で良かったかなと思える。むしろそれを自分が選択したくらい、それしか選択できなかったとも言える。

小さなことでも、自分の心に蓋をして、周囲のことにこたえていると、やる気がなくなる。無気力になる。好きなことがわからなくなる。あたりを見渡してみれば、みんなそうと思えるかもしれないが、みんながみんなそのような状態であるわけではない。好きなことがあり、毎日新鮮味を感じて生活している人はいる。

やる気が出ない人は、まずはゆっくり休むことである。頭と身体を空っぽにすることである。いや、今日はもう充分休んだんだけれども、と思うかもしれないが、そのような場合は、今のちょっとした意欲にこたえることである。

ちょっとした意欲とは、最初のうちはお腹が空いた、あれが食べたい、お手洗いに行きたいといったところから始まる。その意欲にこたえることである。最初のうちは、え!?好きなことをしていいの!?とウキウキして衝動的になってお酒をたくさん飲んだり、焼肉を好きなだけ食べたり、欲しかったブランドものを買う人がいる。そのような場合でもいいのではあるが、これは”ちょっとした意欲”ではない。これらの意欲は乾いた心の反動だ。この反動の気持ちにこたえても、満たされることはない。逆にまわりまわって更にやる気がなくなる。

それではちょっとした意欲とは何か。それは"エゴのない意欲"である。こうしてやろう、あぁしてやろうというと思わない意欲である。いや、別にお酒も焼肉もブランド物もあれこれしようと思っていないのだけれども?と考えるかもしれない。しかし違う。これらは、何か満たされない気持ちがあって、苦しくて、悲しくて、怒りを溜めた結果湧き上がってきた意欲である。このような衝動的な意欲にはこたえないことである。

エゴのない意欲の声は小さい。大変な困難を乗り越えてきた人、やる気がなくなった人にとって、その声を聞くことは難しい。しかし、それは確かに自分の中でささやいている。その声は優しい。暴力的ではない。破壊的ではない。刹那的ではない。ちょっと散歩に行こうかな、空が綺麗だな、お布団が気持ちいい。そのような意欲である。普通はこのような声には気づかない。しかし、いつの間にか自然にやっている。無意識の中で気に入っているので、勝手にやっている。

エゴのない意欲は、無意識が生み出している。無意識を意識するなんてしたことがないと思うので、最初はおそらくできない。しかし、これまではやってきている。

例えば、本屋さんを徘徊してみることだ。何を見よう、読もうなどとせずにただ歩いてみる。すると、なんとなく手に取る本がある。それが自分がお気に入りの本だ。気になっている本だ。なんとなくいいなと思っている本だ。ゆっくり休んで、頭と身体を空っぽにして、そのような、自分のなんとなくやっていることに気が付く、やってみる、これがやる気が出ない状態から脱出する方法だ。

なにか新しい知識をつけたり、これまでの自分を回想する必要もない。将来について、このような姿になれるといいなと目標を掲げることでもない。自分の無意識の中では夢を既に持っている。好きなことがある。それが、まるで虐待されているかのような環境で、見えなくなっているだけだ。見つけるために、あれこれしなくていい。むしろ何もしないことで、ユニークな自分になれる。満たされる。どんな自分にもなれる。

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