「わたし、虐待サバイバー」羽馬千恵 を読んで
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『親がどんな人間であれ、自分という人間の人生には関係のないことだ、と思うように成長してる自分がいました。
親が子ども時代に虐待したからといって、いつまでもわたしが苦しむ必要はないし、
わたしの人生はわたしのものであって、親のものでもなんでもない。
当たり前ですが、自分は親とは独立した個別の人間だということです。
いつしかそんな考え方をしていたわたしは、何十年か越しに母からの謝罪があっても、もう、こころが揺れることはありませんでした。』(本文より)
わたしには、大人になって経済的に自立した後であっても、親からの愛情を欲した時期がありました。ままならない現状としんどさ。過去を振り返ってみたら、そこにあった親の姿は自分を嫌い、避けながらも「こうあるべき像」だけはグイグイと押し付けてくる姿でした。それを再認識してからの懊悩。話しかければ『そんなこと知らない!』で終わる会話。聞かれたことには答えないのに、自分の話したいことは、こちらの反応などお構いなしにしゃべり続ける。会話でなく、講演会のよう。その他もろもろ。恨み節を述べたいわけではないのです。たぶんわたしがされていたようなことは「虐待」の範疇に含まれるには微妙なものなのだという自覚もあります。ひどく支配的、抑圧的であったことも、10年以上前の自分の認識だと単なる特質、個性という捉え方。令和のいま、どうなのかは知りません。私は、一時期必死で足掻いて足掻いていた時期を経て、そのカテゴリーは避けるようになっていったのです。
なぜこの本を読んでみようと思ったのか自分でも分かりません。本当に分からないのです。
本書のこの箇所を読んだとき、身体がビクッとしました。わたしが悩んでいたころ、同じような結論に達したことを思い出したからです
私(親子といえど、私が生まれ落ちた時から別々の人間なのだ。血の繋がりがあっても、別々の人間なのだ。だからあの女に好き嫌いがあってもそれは仕方のないことなのだ。人間、好き嫌いと相性はどうしようもない。だって別々の人間なのだから。親子であっても、それぞれ別の人間。)
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(お恥ずかしいですが)きょうだいの間の扱いの差に悩んでいて、必死に『人間なのだから好き嫌いがあっても当然』と、人間全般のデカい話に落とし込もうとしてる自分の姿が哀れになってくる。いじましい。
まるで「世界が残酷なのだから仕方ない」と無理矢理自分を納得させているようでもある。
まあそんな自分のクソみたいな恥エピソードはともかくも本書の筆者のこの後も文章も素晴らしい。
『親に謝罪や親らしさなど、今さら、もう求めていないのです。虐待から立ち直るということは、親子という上下の関係ではなく、他人と近いようなフラットな関係になることかもしれません。
親に親らしくしてほしいとか、謝ってほしいとか、「してほしい」と求める子どもの視点から、親もひとりの人間だと客観視できたとき、[毒親]は自然と自分のなかから消えていくのです。』
凄いですね。確かに『してほしい』『あの時こうしてほしかった』というのは子ども視点です。
その思考を極めていくと、親に求める要求ががどんどん高くなっていく。パーフェクトヒューマンにしか出来ないことを求めてしまっている自分がいました。
あんなに忙しくて大変なのを見てきたのに。
わたしはもう若くもなく、親は高齢です。今の関係性は「生き死にに関わるようなことと子供としての義務は果たそう。最低限、実家には顔は出そう』という自分なりのラインを設けたものです。病院への送迎や入院の手続きなどはやります。
実家に行く前の日は具合が悪くなる。実家に行っても、息苦しいだけで楽しさはあまりない。
本書は、母親とラインのやり取りをしていてそれも載っている。筆者が、起こったことを認識していきながら、対話する様子に、どんどん読み進めてしまう。
前述したような良い言葉も沢山出てくる。ぜひ本書をお読みいただきたい。
※テキストは随時追加していきます