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編集人の京都の朝をぶらぶら◉外から二条城を見てみると【二条通 編】

京都在住の編集人のモリタです。最近は少し観光客で賑わい過ぎの京都ですが、早起きして、じっくり街を歩くと意外な京都が見えてきます。

今週末は、京都・二条城へ。
今回は、NHK「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」の『二条城』の放送回で紹介された二条通からの視点でぶらぶらしたいと思います。

まずは、二条通を東へ向かって、烏丸御池の北西角にある京都国際マンガミュージアムへ。

烏丸通から一筋西の両替町通沿いの西門に「二條殿址」の石碑があり、このあたりに徳川の時代より前の二条城があったことが分かります。
ただ、この二条城は、足利義昭の居城ではなく、正親町天皇の皇子・誠仁親王のために信長が建てた二番目の二条城です。だから、石碑は「二條殿址」と記されています。

では、足利義昭のための二条城はどこにあったのか?

京都国際マンガミュージアムより北の烏丸丸太町の平安女学院中学・高校に「旧二條城跡」の石碑と案内板があり、信長が最初に建てた足利義昭のための二条城があったことが分かります。
近年の信長研究により、"キムタク信長"と異なる中世的性格の信長像が明らかになってきているので、足利義昭の二条城と言ったほうが正しいのかもしれません。

次に、豊臣秀吉の二条城へ。

二条通より南端は石碑がある押小路通、北端はこの民家のあたりまで秀吉の二条城があったようです。日蓮宗の妙顕寺を移築して建てられたことから、石碑には「豊臣秀吉妙顕寺城跡」と記されいます。
秀吉の二条城は、本能寺の変以降、聚楽第が建てられるまでの間にあった城で、その範囲などは特定できておらず、今後の研究により明らかになってくるものと思われます。

そして、ゴールの徳川の二条城へ。

中世から近世の二条通は、誠仁親王のために建てられた信長の二番目の二条城があったように、公家の邸宅が並び建つ京都のVIPストリート。そんな目ぬき通りをこの場所で封鎖し、徳川の権勢を見せつけているかのような二条城は、東から西に向かって歩くことで、より実感できます。 

二条城の大規模工事を支えた堀川に架かる二条橋から堀川通を渡り、ゴールの徳川の二条城に到着です。
当時の景色としては、時期をずらして、北には家康の天守、南の大手門越しに秀忠・家光の天守が聳え立っていたのだから、まさに圧巻だったでしょうね。

映像で観るだけではなかなか分からないことも、このように実際に現地を歩いてみると、いろいろと想像をめぐらすことができるので、人が少ない早朝に訪れるのがおすすめです。

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