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編集人の京都の朝をぶらぶら◉本能寺の変と祇園祭

京都在住の編集人のモリタです。最近は少し観光客で賑わい過ぎの京都ですが、早起きして、じっくり街を歩くと意外な京都が見えてきます。

今週末は(7月13日)、祇園祭の山鉾が多く建つ四条烏丸周辺へ。

7月10日からはじまった鉾建て。早朝の6時台なのに、一眼レフカメラやスマホで写真を撮る方々がけっこういらっしゃいました。特に人気の長刀鉾の前には、厄除けのちまきを求める行列が授与前からできており、八坂神社周辺に比べて祇園祭がはじまった感はかなりありました。

と、ここで山鉾のうん蓄に入るのが普通なのですが、他にも紹介されている投稿がありますので、祇園祭と四条烏丸周辺について少しお話しできればと思います。

四条烏丸を四条通沿いに西に向かい、室町通、新町通、そして西洞院通を北上し、錦通、蛸薬師通のこちらの角に、あの本能寺の変で有名な「本能寺」がありました(現在の寺町御池の少し南の本能寺境内は、豊臣秀吉の時代に移されたものです)。付近にはそれを伝える名残りが公園やマンションの名前などに残っています

ということは、織田信長は祇園精舎の鐘の音を聴いたのか?  ということを想像してしまいます。

信長が本能寺の変で絶命した旧暦の6月2日から5日後には巡行が執り行われる予定であったといいますから、祇園精舎の鐘の音を聴いていても不思議ではありません。
最新の信長研究では、足利将軍家や朝廷を尊ぶ中世的な性格の大名であったことがわかってきていますが、信長は頻繁に上洛しているわりに滞在期間は短く、京都が苦手であったのではないかともいわれていて、信長と祇園祭についての資料もあまり残っていないそうです。
それだけに本能寺の変の前はどうであったのか、興味が湧きます。

一方で、本能寺があった場所は、当時、京都が「上京」と「下京」に分かれていた下京のエリア外で、低湿地のとても環境の良くない場所にあったようです。

宣教師ルイス・フロイスの「日本史」によると、本能寺からすぐ近くの四条西洞院は、1559年に宣教師ヴィレラが戦国時代の京都で二番目に布教拠点を得た場所で、「町外れの、通常きわめて下層のもっとも賤しい人たちが住んでいる革ノ棚という一区」と記しています。ここで暮らしていた人々は、下京の外から祇園精舎の鐘の音をどのような思いで聴いていたのか…、考えさせられます。

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