世界を諦めない人

諦めないことを選べる人は強い。
諦めないでいることの価値を知れるまで歯を食いしばり、報われるまでの長い道を堪えられる人。ほんとうに諦めないでいる、という選択は楽観からはもたらされない。得るべき結果、望んだ未来のため今を犠牲にし、何ならその果実にありつくのは自分ではないことすら理解してもなお“良きこと”のために舵を切る、そんな姿勢に自分は恐怖すら覚える。
諦めないことを選ぶ、その強さが醸されるのはその人たちを育んだ環境、関わった人たちによるものもあるのだろうか。何がそんなに希望を見せるのだろう?私にはわからない。どうして、人の世の行く末に光を見いだせるものだろうか。
考えながら、憎みながら、同時に尊敬せずにはいられない。諦めないことは計り知れない強さに思える。

自分は、諦めてしまっている。正確には、「諦めたほうが良い」と、思っている。
人間を、つまらない生物だと一蹴して、こんな世界はいずれ沈むだろう、と。どうせそうなるのだから、手放してしまおう、と、そう思っている。
この世に命を生み出すことに意味を見いだせない。それどころか罪ですらあるのではと憂いている。己の快のみに関心を持ち、人間の世などいずれ尽きるのだからと悟ったような倦怠を身の内に飼っている。
世界にうまく馴染めず、未来に期待を持てない。それは自分の立場ゆえだろうか。力さえあればこんな世界でも、なんとかできると踏みとどまれるのだろうか?希望を感じ取れるのは才能ではなく、環境か。その人本人の経験により醸成された価値観によるものだとすれば、私にはそれが足りないのだろうか。

諦念は赦しを自分に与えてくれる。無力だと突き放せば、運命と受け入れれば嬲り殺される自分を惨めだと蔑まずに済むし、来る破滅も必然と飲み込める。苦しまないで済む。自分のせいではない終わりは安寧に似ている。人間という生き物全体を欠陥品とみなし、自分も所詮その一個体に過ぎないのだからと己を放り出して見れば楽になれるのだ。
彼らは楽になりたくないのだろうか?考え続け、挑み続けて疲れないのだろうか。そんな訳はない。望みを持つとは苦しいことだ。自分にも他人にも世界にさえも裏切られ続けることだ。行動すれば傷がつく、道理だろう。やめにしないか?
甘言を弄し道を踏み外させたい。
その想いの中に「踏み外させたい、なのか」と自分こそ邪道と断ずる意思がある。結局自分こそ諦めたくなかったのだろうか。けれども力が足りず、他者を信じられず、未来を…願うことが怖くなってしまって、卑屈に縮こまってしまったから。だから、羨ましくて悪いのだろうか。望み続けることのできる人が自分の恐れを理解してくれることを望んでいる。

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