【雑記】私の長い友人について

俺は大人になれたのか?

親戚のおじさんが来て
一緒にアニソン歌った
人として軸がぶれてる
て歌でブレブレ踊った
でもこれって昔のことよね?
今はちゃんとしてるんでしょ?
ちゃんとぶれなくなったんでしょ?
どしてなんでなんで黙んの?

大槻ケンヂと絶望少女達『あれから』

今年で27歳になった。21歳のとき、10年後の目標を聞かれて「生存していること」と答えたような気がする。30歳になった時、10年後生きているかどうかについて確信が持てていたらいいな、そういう人間に成長できていたらいいなと思っていた。30歳まであと3年だけれど、10年後生きているかどうかについてはやっぱり確信が持てない。でも、一応まだ私は生きているし、来年再来年もたぶん生きているかな、という気もする。そういう意味では成長したのかもしれない。

希死念慮(ここでは具体的な行動を起こそうとする欲求ではなく、「なんとなく死にたい」くらいの感覚)とは少なくとも10年、下手すると15年来の友人だ。しばらく顔を見せないこともあるけれど、毎日のように顔を見せに来る時期もある。私にとって、彼あるいは彼女の根源は怠惰だ。私にとって「死にたい」というのは、だいたいにおいて「義務や責任やしがらみや不安を何もかも忘れて永久のバカンスを過ごしたい」「何もせずずっと寝ていたい」というのとそう変わらない。この27年間、自分が怠惰でなかった例がない。そう考えると、この厄介な友人とはたぶん生涯付き合っていかないといけないのだろう。

読む人にとってはこの文章は自殺を仄めかしているように見えるかもしれないけれど、ここ数年は私の人生の中ではかなりうまくいっている方だ。そんなに頻繁に希死念慮に襲われるわけでもないし、何か具体的な行動を起こそうとしたこともない。死にたい自分をアイデンティティにしているだけで、本気で死ぬ気はあんまりない。
それなりに好きなことを仕事に出来ているし、それなりに評価もされている。それに、お金をもらうというのは、それだけで自己肯定感が満たされる。今にして思えば学生という身分は大変だ。
でも、お金をもらえば責任が発生する。責任が発生すれば逃げたくなる。期待されるほどしんどくなる。結局、自己肯定感が満たされたくらいで私の希死念慮は消えてはいかなかった。
ともかく、ほどほどに付き合って、とりあえずまた10年生きていきたいな、と思っている。

数ヶ月ほど活動していた結婚相談所をやめた時、重荷を下ろしたような気持ちになったと同時に、一歩死に近づいたな、と思った。自分終末時計の針が3分ほど進んだような感覚だ。世界終末時計の午前0時は人類滅亡だが、自分終末時計の午前0時は自死だ。
結婚すれば希死念慮から逃れられると期待していた。希死念慮というのはコンピュータウイルスのようなもので、一度感染してしまうと何か辛いことがあるたびに脳のリソースの一定領域を食うようになってしまう。結婚をすれば他者のために生きていく責任が出来て、自殺という選択肢が思考の中に入りにくくなるんじゃないかと思ったのだ。
今思うと別にそんなこともない。家族がいても自殺をする人はいっぱいいるし、責任が出来れば出来るほど逃げたくなるのが私の性だ。
ともかく、そんなエゴしか今の自分にはなく、それを飲み込んで活動を続けていくような芯の硬さも無かったわけで、ぶれぶれな私にとっては結婚は少なくともまだ時期尚早だったのかな、と思う。
結婚していない人が大人じゃない、とは思わないけれど、結婚している人はだいたい大人だなと思う。私は明日の自分が何を考えているかにすら確信が持てない。

結婚の話題は孤独死の話題としばしばセットだ。結婚に興味がある人たちもない人たちも「(病気による)孤独死は嫌だよね」と言う。正直、自分にはあまりピンと来ない。長らく日本の20代・30代の死因第1位は自殺だ。例えば家の中で転んでしまって首をしたたかに打ったり、トイレでいきんでいるときに脳の血管が切れて脳血管疾患で動けなくなったりして、誰にも気づかれないまま長い苦しみの果てに死んでしまう可能性はあるが、当面の間はそれよりも自殺のほうがありそうな話だ。
……そうやって病気のリスクを精神から追いやっているだけなのかもしれない。私の父は50歳のときに脳梗塞で倒れたのだし、ずるずると死ぬ日を引き伸ばしているうちに意図せず孤独死してしまうかもしれない。でもまあ、その時はその時だ、とも思う。いや、やっぱり嫌だな。

変わらないでいたいし でも変わっていきたいし

10年前に作った物も
いまだに越えられてもないし
とは言いつつ前進
してるいつも返事
してるみたいな気分
いい感じです 言い返してる

dodo & tofubeats 『nirvana』

例えば技術的に出来ることや知識が増えたとか、お給料が増えたとか、それはそれで成長なのかもしれないけれど、少なくとも自分が心の底から望んでいることではきっとない。
なぜなら、それは強いられる成長だから。
血を吐きながら続ける悲しいマラソン。
技術を身につけるのは確かに楽しい。最新の論文を読めばワクワクすることもあるし、データコンペの上位解法をみて心の底から感嘆することもある。でも、それは仕事になるものの中では楽しい部類だってだけで、タダでするほど好きでもない。調子どう?いい感じです。

昔より生きるのが楽になったな、と思えるようになっていたい。
この世界は生きるに足るものであると思えるようになっていたい。
そして、出来れば他者にそう思わせられるような人になっていたい。

「変わらないね」と言われるのは嬉しいけど、「変わったね」と言われるのも嬉しい。生きるのが楽になったというのを人から認めてもらう必要はないけれど、生きるのが楽になって、その結果自分の中から滲み出して見て取れるくらいの変化が起きていたら、やっぱり嬉しい。

……そう言えば、自分が人生で一番しんどかった時は、死ぬ時は自分が存在していた痕跡を一切残さずに消えることが出来ていたらいいな、と思っていた。今はそうでもない。誰かにたまに思い出されたりしたいし、他人とのちょっとした思い出も覚えておきたいと思うようになった。
紛れもなく、これは私がここ数年で得た成長の一つだ。

それともう一つ。こんな誰もが抱くような平凡な感情、誰もが書けるような平凡な文章を、自分のためだけに、恥ずかしげもなく出せるようになった。おそらくアカデミアからドロップアウトしたあたりで、ユニークでなくてはならないみたいな気負いがなくなった。会社員はつくづく楽だ。オンリーワンである必要がない。別にナンバーワンでもなくてもいい。そういう意味で、面の皮が厚くなったのだと思う。良いことだ。

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