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川上弘美「センセイの鞄」

この本は、10年ほど前に一度読みましたので再読です。

あらすじは、
40歳直前のツキコと30歳上の彼女のかつての高校教師との恋愛物語です。居酒屋で偶然に邂逅したふたりが恋愛関係に発展していく経緯がツキコの心理から描かれています。出会いから5年後に先生は死亡してしまいます。後にはセンセイがいつも持っていた鞄がツキコのもとに残されます。
 
ごく単純なストーリ―展開で、初めて読んだときの印象は年齢の離れた男女の恋愛ものとして、まずまず軽いエンターテインメント小説という印象でした。
なんでこれが、谷崎潤一郎賞を受賞したベストセラーなのか疑問でした。
今回再読しましたのも、軽い小説を読みたいと思っていたところたまたま本棚の目の前にあっただけのことでした。

再読して、この小説に対するわたし自身の評価は一変しました。
今回の再読で、この作品は川上弘美の作品であるとの印象を深くしました。
単なるストーリー展開ではなく、詩情あるいは幻想的ともいえる川上弘美の世界が、特に後半に展開されています。

この作品(文庫本)の解説が、哲学者の木田元であることも面白いです。
わたしは、現象学関連の文献を読み漁っているときに木田元の著作もかなり読んでいました。
ただ、この解説自体は、わたしにとってそれほどの面白みは感じられませんでしたが。

本書については、リアルではないという批評もあるのではないでしょうか。わたしもはじめて読んだときには、そんな印象を持ったことも事実です。
特にセンセイはリアルの人というよりも現実離れした象徴的な人間として描かれています。ツキコの心情をとおして描かれていますので、あくまでツキコのセンセイへの思慕・愛情の投影なのかもしれません。
それは、越えられない壁のあるセンセイとの関係に、あるいは人と人との普遍的な関係に重要性を置いているから、このような描き方になったのではないでしょうか。

わたしが、もっとも感動したのは、本書の末尾の以下の文章です。

 センセイ、と呼びかけると、天井のあたりからときおり、ツキコさん、という声が聞こえてくることがある。 ~中略~ センセイ、またいつか会いましょう。わたしが言うと、天井のセンセイも、いつかきっと会いましょう、と答える。
 そんな夜には、センセイの鞄を開けて、中を覗いてみる。鞄の中には、からっぽの、何もない空間が、広がっている。ただ儚々とした空間ばかりが、広がっているのである。

この結末の文章だからこそ、題名が「センセイの鞄」であることに納得します。
この最後の2行をこそ作者が書きたかったことではないかと慮ります。
川上弘美の深い人間観を察するとともに、その表現力のある筆致に感嘆します。
人間の孤独感を表象させるこの一文が、しみじみとわたしの心に共感を与えます。

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