「うっかり失敬」を読んでいる。
とあるセミナーにて、「ポジション・チェンジ」という技術を教えてもらった。主に人間関係の課題にぶつかったときに使われるということらしいのだが、別にいつでも使ってもよくて、例えば、何か自分の中だけでは解決できないときに「誰かになりきって、その人の考え方、行動を徹底的に真似てみる」ということをやってみるのだ。
そういえば、私は、学生時代から「自分ではない誰か」を常に演じているという意識があって、でもそのうち「自分ではない誰か」を演じることしかできないのが自分なのだから、もはやそれが自分なのではないかということになり、なんだかいつも訳がわからなくなり途方にくれているような子だった。
そんなことを毎日毎日考えているような子だったから、誰かを自分の中にインストールするようなことは何ら抵抗がなかった。そもそも自分なんて自分であって自分でないんだから、誰が入って来ようとやはり自分なのだ。
そのセミナーでは「なりたい誰か」というのをテーマにポジション・チェンジをやってみようということなったのだが、私は浅生鴨さんになりきることにしたのだ。
「その人はこの部屋だったらどこにいますか?」
と言われれば、雑然としたカウンターの隅で壁の方を向いてみたりするのだ。そして、目の前にいる「本当の今の私」に浅生鴨さんだったら何と言うか、想像して声をかける。不覚にも、私はその言葉を聞いて泣いてしまったのだ。私の中の浅生鴨さんが勝手に言っただけの言葉なのに。
私は浅生鴨さんのようになりたい。
でも、私の知っている浅生鴨さんは、私の知っている浅生鴨さんに過ぎないわけで、それは浅生鴨さんではないから、正しく言えば、「私の知っている浅生鴨さんに私はなりたい」と言っているということであり、それはもはや単なる私の幻想に過ぎないのだ。
その幻想をより現実にし、そしてますます幻想にしてくれるのが、この本、「うっかり失敬」と「雑文御免」なのかなぁと思って、今、ページをめくっているのであります。