命を大事にするということ
5月13日に『「生きる」大川小学校 津波裁判を戦った者たち』を富山の御旅屋座で観てきた。
映画の内容としては下記のような形だ。
2011年3月11日に起こった東日本大震災で、宮城県石巻市の大川小学校は津波にのまれ、全校児童の7割に相当する74人の児童(うち4人は未だ行方不明)と10人の教職員が亡くなった。地震発生から津波が学校に到達するまで約51分、ラジオや行政防災無線で津波情報は学校側にも伝わりスクールバスも待機していた。にもかかわらず、この震災で大川小学校は唯一多数の犠牲者を出した。この惨事を引き起こした事実・理由を知りたいという親たちの切なる願いに対し、行政の対応には誠意が感じられず、その説明に嘘や隠ぺいがあると感じた親たちは真実を求め、石巻市と宮城県を被告にして国家賠償請求の裁判を提起した。彼らは、震災直後から、そして裁判が始まってからも記録を撮り続け、のべ10年にわたる映像が貴重な記録として残ることになっていく。(『「生きる」大川小学校 津波裁判を戦った者たち』HPより抜粋)
映画はナレーションを用いず、遺族が撮った記録映像とインタビュー映像が主なもので
淡々と事実が述べられる形で進んでいくドキュメンタリー映画だった。
命を大事にすることが描かれた映画だったように思う。愛することが命を大事にするということならば、この映画に登場する大川小学校の遺族たちはみな亡くなった子供を愛していたように思う。大川小学校でなぜ、自分の子供が亡くならなければいけないのか追及することは、親として当然のことだと思う。切実なことだと思う。大川小学校を教訓として命を真ん中においた学校を求めていくことでその命に意味を与えようとしていたように思える。それは失った命を大事にするということではないのだろうか。今回映画を見て、失った命を大事にすることはとても難しいし、苦しみが伴うことものだと今回感じた。
特にそう感じたのは、石巻市、宮城県に対して国家賠償請求を求めるときのインタビューのシーンだった。子供一人一億円として、値段をつけて訴えなくてはいけないと弁護士に言われた時の遺族のお父さんの顔の曇りにそれを見た。自分の子供の最後の瞬間というか、自分の子供がなぜ死んだのか知りたいだけなのに、子供の命に値段をつけなくてはいけないことの不条理さがなんとも切なかった、残酷に感じた。(この不条理さがあったためか、提訴したのは犠牲となった児童74人のうちの23人の遺族だったとされる。)
遺族の人たちの命を大事にする姿勢と対照的に見えたのは石巻市教育委員会と第三者検証委員会の姿勢だ。映画の中で石巻市教育委員会の対応は不誠実に思えた。大川小学校の津波を生き残った証人の証言を記したメモを破棄したり、遺族の子供の証言を「記憶が変わることもありますから」といってなかったことにしようとするなど、真実が知りたい遺族への説明責任を果たさない様子が見られた。自分たちの責任から逃れるために物事を小さく収めようとする。保身のため、うやむやにして幕引きをしたいように見えた。保身は生物としての本能だと誰かが言っていたが、失われた命を大切にしない実に野蛮な行為に思えた。
石巻市教育委員会の後の第三者検証委員会もまた無責任だった。最初から検証範囲が決められ、遺族から提示された疑問点を追及することがなかった。
無責任さ。責任が果たすものではなく、かぶりたくないものである構図が3月11日の大川小学校の校庭にもあったのではないかと遺族は書いている。
保身のために責任を果たせず、命を、大切なものを優先できないというのはあってはいけないことのように思う。
最後に映画とは直接関係がないが、大川伝承の会の冊子において大川小学校の遺族が2014年4月におこったセウォル号の沈没事故の遺族へメッセージを送っているのを見つけた。その最後の言葉が心に残った「わが子を失う悲しみに国境はありません」。