沖 渚の名前の意味と使い分け
記事を書く上で名を利用し、読者様や自己分析にも役立てられる…かもしれない。
note上の名前の意味と、記事の冒頭でそれを利用した使い分けをしようかなと思います。
なぜ、沖 渚なのか。
双極性障害(場合によっては敢えて「躁鬱病」という言い方も使用させていただきます)の方にはお察しのつく方もいらっしゃるかもしれません。
沖 とは一般的に、足がつかないほど深い、岸から遠く離れた海の場所を意味しております。
一方、渚 とは波打ち際という意味で、英語ではbeachとか様々な言い方がありますね。波は打ち寄せるものの足で砂の上を歩けるし、呼吸ができる。
鬱状態のとき、私(私の脳内)は常に沖にいます。深く深く沈み、今までの生を悲観し死を望み、上がって息継ぎすることなどこれっぽっちも考えません。
私はII型ですので、一年のうち半分以上は沖に浮かんでいるか沈み込むかといった状態です。
残りの1/3程度は、簡単に言うと本来の自分に戻っている状態。渚を心地良く歩いたり走ったり、波と戯れたり。
かと思えば予感や不安が頭をよぎり、一歩踏み出せば、振り返れば、沖へ向かってしまう。瞬きした瞬間に沖にいるなんてこともしばしば。
私に躁状態はほぼありません。
I型の方のほうがお辛いという情報がたくさんあり、確かにそう(話がズレますが、こういう真面目なことを書いたり話したりしていても「躁」と「そう」がかかってしまったのに気づくと間が抜けて一瞬気が楽になります)なのかもしれませんが、II型はII型でまた辛いのですよ…。
で、冒頭でどう使い分けるかと言いますと、この記事が「沖にいる」ときに書いたのか「渚にいる」ときに書いたのかをまず記載しようと思います。
暗い話は読みたくないという気分の方は引き返せますし、「渚」なら普通・冷静・少々楽しい話などと思って様子見して読んでいただければと思いました。まぁ…そんな訳で試しにそうしてみます。
次回は現在一番悩ましい、忌々しい私の首(ジストニア)のお話を書く予定です。
それではまた、願わくば渚にてお会い致しましょう。(若干夜テンションですね。これはまた別物として扱わねば…)