藍型を始めるまでのこと−沖縄の藍染め
今現在、藍の世界にどっぷりはまっているけれど、もともと藍にほとんど興味はなかった。紅型は明るいけど、藍は色数もなくて地味で面白くないと思っているくらいだった。ちょっと見かける藍染めは簡単な絞り染めが多くて格好悪くて、おばはんぽいって思っていた。
藍を建てるということにも、無理でしょ!って思ってた。紅型の大御所達が口を揃えて言うのは「藍を建てていた事があるけど大変だし割が合わないからやめたよ。」ってセリフ。したがって藍を使った品を見る機会もない。私自身、むずかしそう、毎日お世話が大変そう。お金かかりそうって何の知識もないのに何故か思っていた。完全な先入観と思考停止。
それがなぜ始めたかって話です。きっかけは紅型うちくい(風呂敷)の復元をしたことだった。この事業はなるべく昔の方法を用い、昔の材料を使って模倣再現するというもので、ものすごく苦労した。作る前にまず調査から行ったが、わからないことだらけだった。伝統工芸なんていうくらいだから脈々と受け継がれた技や材料や方法があるだろうなんていうのは全くの思い違いで、なんにも伝わっていないじゃないか!って思った。あるのは現物だけなんです。そこから読み取るのだ。タイムマシンないと無理。
その中に藍で染めるという工程が入っていた。それで半ばしかたなく藍を建て始めたのだ。
それと前後して書いておかないとならない重大な出会いがあった。藍を建て始めることになった3年程前から埼玉県で藍の型染めをされている田中昭夫さんと知り合いになっていた。藍が始めたくて尋ねて行った訳ではないのだが何度かお宅に伺って色々見せて頂いた。この田中さんの作るものには野暮ったさがなくおもしろい。すぐに藍ってきれいだな、意外とカラフルだなって思い始め、興味が湧き、昔のものもたくさん調べ見ていくうちに、藍ってなんか思ってたんと違うなすごい世界なのねってなっていった。つまりは私が藍のいいものを見てこなかっただけなんだった。でもでもだからといってさあ藍を始めようってまではなかなかいかなかった。
だから復元の仕事は今思えば、早くやんなさいと誰かに尻を叩かれたような状況だったなと感じる。
その他にも藍を始めた前後で、関連する方となぜかやりとりがはじまったり、質問する事が出来る人が数人現れた。年賀状のみのやり取りだった専門学校時代に習った石塚宏先生とか、沖縄での展示会を前から見に行っていた平敷さん達とか松永さんとかたくさん質問させてもらった。泥藍を作っている池原君にもたくさん教えて頂いた。研究熱心でとても参考になった。
今思うと藍に関してお膳立てがされていたような数年だった。藍を始めるのも藍にハマるのも自然な流れにのったまでであった。
でもまあこれだけ見たり聞いたり勉強したりしても、自分達でやるとなると全体的にさっぱりわからないことだらけだった。失敗の山ができて(本当に失敗作の布が山積みになった)お金も使い果たした上に作った物もあまり売れず、やべっぞこの先どうなる事かという1年目であった。
しかし、藍を始めてみたら見えてきた物がたくさんあった。
長くなっちゃったから、それはまた今度。