4の妬み/羨望
4が囚われている感情は妬み、または羨望と云われる。一言でいうと「自分には何かが欠けており、その欠けている何かを埋めたい」と絶えず切望する気持ちのことである。他者には自分の欠けている何かが既に備わっているように思える。いつでも隣の芝生は青い。
理想には手が届かなくて、満足感を得られずにいる。その満足感を他者は容易に手にしているように思えてしまう。ただ、4にとっての理想はずっと理想であって欲しいもの。理想に近づき過ぎるとそれは無価値になってしまう。遠くにある理想を望み続ける状況に価値を見出せるし、精を出す。
妬みという単語を辞書で調べると、「自分と他人を比べ、他人の優れた部分を羨み、憎く思うこと」とあるが、エニアグラムでのタイプ4の妬みの説明としては意味が若干ズレるので注意。
他者との比較により自分にないものを人の中に見つけた場合、いいなと羨み、なぜ自分はそれを持っていないんだろうか、なぜ自分はこんなにも欠けているんだろうと自己に目を向ける。至らない自分である責任はある程度は自分にあり、それを知っているからこそ、自己非難が加速してしまう。
4はベクトルが内向きなので、感情は基本的には他者(外界)よりも自己の内面へ向かう。だから、他者のものを奪いたいだとか、誰かへの憎しみが湧くという外向きの感情は囚われの定義には含まれていない。もっというと書籍の健全度の描写、不健全だとしてもそのような記述は見当たらない。(灯台下暗しなのかリソの基礎編の健全度の表、不健全の説明にははっきり「憎む」と書いてあった。)
劣等感に苛まれ、至らない自分自身に失望し、憎悪し、自死するという方向の描写が多い。だからといって聖人君子じゃないので生きてれば世の中や他者を憎む場合も全然なくはないけど、囚われがある結果としてもたらすものは自己憎悪と自分への絶望の方が主だとは思ってる。
てかそもそも羨望の目的は、否定的なアイデンティティを構築することにある。欠点は存在してて欲しいもの。欠点に目を向けるために羨望という感情は必要なのである。
努力の末、理想が現実化したとしても、その状況から更なる欠けているものに意識が集中してしまう。既にあるもの、手にしたものでは魅力不足で、そこにないもの、自分から遠く離れているものに惹かれる。
4のモットーとして「半分しか入っていないコップを一杯にする。」と表現した本があったが、この文章は4の妬み/羨望を表していると思う。自分自身を一杯にしたい(=人並みにしたい)と強く望んではいるが、いつでもそのプロセスにあり、その状況を知らず知らずのうちに4自身も望んでいるんだろうと。